369 吉村作治・曽野綾子「人間の目利き」 [Feb 13, 2019] 

副題は、「アラブから学ぶ人生の読み手になる方法」。ということは、ネームバリュー的には曽野綾子先生の方がずっと上だけれども、吉村先生が主役で曽野綾子が聞き手という位置付けになるだろう。

曽野綾子はもともと小説家なのだが、申し訳ないことに作品はひとつとして読んでいない。だが、エッセイ類はほとんど全部といっていいくらい読んでいる。

そのきっかけは、まだ景気のよかった時代、通勤電車の行き帰りで読むためにほとんど毎日週刊誌を買っていて、そこに曽野綾子の文章がよく載っていたことである。正直なところ、椎名誠の連載よりもずっと面白く、また考えさせられることが多かった。

その後、日本財団(旧・日本船舶振興会)が問題を起こした時、笹川一族に代わって会長となったのは、そもそもキリスト教の海外宣教師への補助で日本財団とお付き合いがあったからであった。その後、文化人を気取った元アナウンサーが似たようなことをしたが、年季が違うのである。

そうしたエッセイの中に、曽野綾子がまだ若い頃サハラ砂漠を横断したことが書いてあったのはよく覚えている。この遠征で、まだ世間的には無名の吉村先生が、現地アドバイザーとして同行していたのである。それ以前から、かれこれ半世紀にわたるお付き合いなので、並みの対談とは深さが違うのであった。

いまや早稲田の名誉教授であり、功成り名を遂げた吉村先生であるが、若い頃はそんなビッグネームになるとは思わなかったのだろう、現地のお嬢さんと結婚して子供もいるなんてことは知らなかった。向こうの女性は異教徒と結婚できないので、先生はイスラム教徒となった(現在は改宗)。メッカ巡礼もしているから、筋金入りのアラブ通なのである。

そういう吉村先生の伝記としても読める一冊なのだが、本題はアラブの人達の考え方についての解説である。これを読むと、曽野綾子先生の言うとおり、ポリティカル・コレクトネスなんてきれいごとでは、砂漠の中で自分や家族を守ることなどできないということがよく分かる。

例のイラク戦争の時、事態終結後にクウェートが出したお礼広告に日本が入ってないことをTV解説では一大事のように言うけれども、私はそれは違うんじゃないかと感じていた。うまく説明できないけれども、あちらは日本は中立だということにしていたいのではなかろうかと思った。

その疑問は、この本を読んでなんとなく分かった。血縁を大切にし、見ず知らずの人は騙しても旧知の人には信義を守り、貸し借りと恩義を忘れないというのは、近代化以前の日本と変わらない。ポリティカル・コレクトネスよりも、よっぽどしっくりくるのである。

アラプの人達は我々と全く価値観が違うという先入観があるけれども、コーランに書かれていることの多くは当り前のことである。豚肉を食べるなというのは極端なようだけれども、仏教だって本来は肉食禁止だし、200年前まで日本もそれでやってきたのである。羊が食べられるのだから、現地の人々にとってそれほどの制約とは感じなかっただろう。

そしてアラブの人達は「イン・シャー・アッラー」、何事も神の思し召しなので、取り越し苦労はしないという。起こってもいないことをあれこれ考えるのはムダであり、神様ではないのだからすべてを予測することなどできない。これは、改めてそうだなと思ったところである。

人ひとりの考えることなど微々たるものであり、この世のものごとすべてを考えようと思ったところで、人ひとりの持ち時間では到底できない。だとすれば、最低すべきことはするとしても、あとは祈るしかないのである。「イン・シャー・アッラー」の代わりに、「運を天に任せる」という言葉もある。そういえば「NINTENDO」はこの言葉から社名を付けたのだった。

[Feb 13, 2019]


曽野綾子先生はポリティカル・コレクトネスに反するというので逆風ですが、多分どうとも思っていないでしょう。