066 昭和最後の日を思う [May 1, 2019]

平成が終わり、新しい元号・令和になった。今回はさきの天皇陛下がご存命中の譲位であるので5月1日という切りのいい日で元号が変わったが、昭和から平成の代替わりの時いろいろ大変だったことを思い出す。

前年の秋くらいからご不例が続き、新聞では連日にわたり「今日のご病状」を報道していた。年内にもお亡くなりになるのではないかという懸念があったので、この年の年賀状は「昭和64年」と印刷せず「1989年」としたものであった。いま考えると、そういう年なので年賀状を出すのをやめようと誰もしなかったのは不思議である。

亡くなられたのは1月7日の朝である。この日は土曜日で今なら休みなのだが、当時はまだ金融機関が完全週休2日とはなっておらず、第1土曜日の7日は営業日であった。家を出た時にはまだニュースは流れておらず、会社に着いたらそういうことになっていた。

ご存命中から、お亡くなりになった時のことをおおっぴらに相談する訳にはいかなかったが、たいていの企業は「Xデー対応」として対策を協議していた。ご不例が長かったので、おそらく同業他社と足並みを揃える時間的余裕もあっただろう。

金融機関の営業は午前9時から午後3時が基本だが、土曜日なのでこの日は午後0時までだった。機械は動いていて時間外でもおカネを下ろすことはできるので、大騒ぎにはならなかった。そして翌日は日曜日、最初から営業はない。

当時の「Xデー対応」では、もし平日にお亡くなりになった場合は営業規模を縮小することになっていたと思うが、土曜日だったので影響はほとんどなかった。その頃すでに多くの会社は完全週休二日になっており、平成に入ってようやく、銀行や役所が追随したのである。

もっとも、その当時は銀行の本部にいたので、顧客対応というものは基本的になかった。営業店とのやりとりもなかったので、かえってヒマになってしまった。あまり早く帰るのもなんだから、マージャンをして帰ろうということになった。罰当たりなことである。

勤務時間は午後2時までということになっていたが、その頃の銀行はサービス残業全盛期で、土曜日でもようやく平日定時の午後5時に帰れれば上等という環境だった。平日なら8時とか9時まで働くのは当り前だったから、それより若干ましといった程度であった。

だから、時節柄もう働くなと言われても家に帰れない人もいたんだろうと思う。午後いっぱい雀荘にいて通常の帰宅時間に帰った。そしてその日の夕刻、当時の小渕官房長官が新元号を発表する例の記者会見を行ったのである。

驚いたことに、翌朝の新聞各紙はちゃんと「平成元年1月8日」と印刷してあった。大したものだというべきか、そもそも新聞社の「Xデー対応」で、何時までに発表してくれと官邸に申し入れていたのかもしれない。

あの代替わりの時と比べると、今回は準備万端というか、ものごとがスムーズに進んでいるようで好ましいと思う。国家元首は激務であり、せっかく千年以上前から「上皇」という制度があるのだから、明治新政府だかGHQにいつまで義理立てする必要はないだろう。

秋篠宮様も慣例によればいずれ上皇になるのだとしたら、いまからどうするか考えておいた方がよさそうだ。きっと考えているだろうと思っても、いまの連中は平気で考えなかったりするからなあ。

[May 1, 2019]


おなじみ小渕パパの平成額装映像。あれから30年経つんだなあ。