618 江東区芭蕉記念館 [Apr 28, 2019]

日本橋・千葉ニュー40km歩きの前日、いきなり歩くのはちょっと不安だったので、日本橋界隈で準備運動することにした。終点は日本橋室町BAY HOTELなのでどこから歩くか。そういえば、これまで深川をゆっくり歩いたことがなかったので、両国から隅田川沿いを深川まで歩いてみることにした。

十連休最初の日曜日、両国駅を下りると相撲関係のイベントが開催されていた。結構な人が出ていて歩行者天国には飲食テントが並び、お土産袋を持つ人もいる。そういえば、蔵前と両国の国技館には4、5回来たけれども、北尾(双羽黒)の時代が最後だったなあ。

両国から海側に歩くのは初めてである。隅田川に沿ってしばらく歩くと江東区芭蕉記念館がある。地図がなくてもすぐ着くだろうと思っていたら、雑居ビルや古い家並みがあり、行き止まりになっている道もあるのでそれほど簡単ではなかった。

新大橋を渡ると、ようやく道案内が出てきた。両国から歩いてもたいした距離はないが、たいていの人は森下とか清澄白河といった大江戸線の駅を使うだろう。まあ、近い駅があればそちらを使うのが当り前だが。

芭蕉記念館は、通りに面したこじんまりしたビルである。1階に事務室とラウンジがあり、2階と3階が展示室である。200mほど離れた分館には会議室があり、屋上は芭蕉の銅像が置かれた公園になっている。

松尾芭蕉は江戸時代というより歴史上最大といっていい俳人である。全国に建てられた句碑の数はおそらく日本一(2位は山頭火)であるが、当時から流行作家という訳ではなかった。

もちろん、俳諧は町人に好まれた芸能で、芭蕉も今日でいう華道や茶道の家元にあたり不自由ない生活はしていたものの、江戸後期の喜多川歌麿や滝沢馬琴のように、蔦屋の出版によって流行作家の地位を占めたという訳ではない。

「おくのほそ道」自体、公表されたのは芭蕉の死後であった。だから、「おくのほそ道」で芭蕉が俳諧の道を究めたとは言えるかもしれないが、それで人気を確立したということではない。「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと」という句があるのは、別にわび・さびを求めている訳ではなく、それほど余裕がなかったからかもしれない。

日本橋から深川に移ってきたのも、どちらかというと都落ちといった状況であったらしい。軒先にひょうたんをつるし、門人がかわるがわる米を補充して、師匠の生活を維持していたという。それはそれで、たいへん風情がある。

芭蕉が住んだ芭蕉庵はもともと幕府御用の鯉問屋を営んでいた門人の杉風(さんぷう)の持ち物で、生け簀に付属した番小屋のようなものであったという。そういえば昔、金魚を飼っていた頃、よく小松川まで藻を買いに来たものだった。江戸時代からこのあたりはそういう土地柄だったらしい。

その後、再開発(!)により周囲一面が大名屋敷となって幕末を迎えたが、大正6年の大津波(!)の際、芭蕉庵の遺物とされる石造りの蛙が出てきたことから、このあたりにあったものと推定されるということである。その石造りの蛙も、記念館に展示されている。

記念館は十連休中にもかかわらず開館していて、何人か見学者もいた。常設展示として道中笠や墨染めの衣、手甲・脚絆といった服装関係の再現や、代表的な紀行に関する説明資料がある。

また企画展示の中に「鹿島紀行」に関するものがあり、芭蕉が鹿島神宮まで歩いた際、1泊目が布佐だったという元気づけられる説明があった。布佐は千葉ニューよりさらに先であり、健脚で有名な芭蕉とはいえ、当時の道路事情は今とは違ったはずなのである。

おくのほそ道といえば、説明の中に代表的な句として、「一つ家に遊女も寝たり萩と月」と「むざんやな冑の下のきりぎりす」があった。もう一首はないのかなと思っていたら、あれは弟子の其角の句だったのだ(鶯の身をさかさまに初音かな)。

夕方明治座の前を通ったら、今年の細雪は長女を浅野ゆう子がやるらしい。昔は「あてのお祈り、効くんやで」と言っていたのに、出世したなあ。芭蕉記念館を見に行っただけあって、「獄門島」にちなむ一日でした。

[May 31, 2019]


十連休中の公共施設ですが、芭蕉記念館は開館中でした。「ダメと書いてあるもの以外は撮影してもいいですよ」とのこと。


200mほど離れた分館の屋上には、隅田川を望んで構想を練る芭蕉の銅像が建つ。