022 年金生活雑感 優先順位をつける [Jul 5, 2019]

早いものでリタイアしてからそろそろ3年である。この前、クレジットカードの整理について書いていて、ちょっと思い出したことがあったので忘れないうちに。

現役時代には500円1000円の支出でいちいち考えることはなかった。ところが、年金生活に入ると500円1000円が積み重なって収支が合わなくなる。なにしろ、月に入ってくるおカネは約20万円。その範囲でやっていかなければならないのだ。

月500円でも毎月払っていれば年間6,000円、月1,000円なら年12,000円になる。年間1万円以上となれば大口支出だ。だから、現役時代なら大して気にならなかった貸金庫代も、カードの年会費も負担になって解約することとなった。

気になるといえば交通費もそうで、千葉ニュータウンから東京都心に行けば片道1,000円かかる。往復だと2,000円。これが積み重なるとかなりの負担になるので、そうそう遠出もできないのである。

やりたいことをすべてやるだけの資金的余裕がないので、必然的にほしいもの、やりたいことに優先順位をつけなくてはならない。いままで特に気にすることなく続けてきたことでも、本当に必要なのか、他のことと比べて優先順位はどうなのか考えざるを得なくなった。

こういうことを真剣に考えるようになったのは、学生のとき以来である。社会人になってからは、ローンとかクレジットというものがあったので、必要だと思えば先におカネを使って後から払うということができた。

昔のことを思えば、グローバルクラブの年会費だのワインのレンタルセラーなんてものは不要不急のものだし、衣食住が足りてたまに遠出ができればそれ以上贅沢は言えないだろうと思う。

しばらく前まで続けていた新聞宅配をはじめ、CSもWOWOWもなければないで大丈夫だし、通信環境を2重にしなくても、いざとなれば図書館でネットにつながる。スマホなんて初めから持ってない。

必要なものは必要なのでおカネを使わなければならないし、どれをあきらめるかというストレスがあるとはいっても、サラリーマン時代のストレスとは比べ物にならない。

いま現在のストレスは、結局のところ関係するのが自分と家族だけである。サラリーマンのストレスは、上司・部下・同僚、取引先、監督官庁などなど他人が関係するものがほとんどで、自分で差配できることに限りがあった。おそらくそれは、もし仮に偉くなっていたとしても同じことだろう。

この間も、年金支給日を前に1週間ほどお小遣いがなくなってしまったが、食費も他の生活費も他にちゃんととってあるので困ることはなかった。図書館で本を借りてスポーツジムで体を動かしていれば、余計なおカネは使わなくても済む。

おカネに余裕はないものの、いま現在十分健康で文化的な生活ができていると思うし、これから先もほしいもの、やりたいことに優先順位をつけて、経済的な困難を乗り越えていければと思う。


毎朝、オムロン血圧計で血圧を測定します。リタイアしてから血圧が上がることがほんどなくなったのは何より。

 

この前、「年金生活では、ほしいもの・やりたいことの優先順位付けが大切」と書いていて、また思い出したことがあった。

どこかで読んだのだが、バカの壁・養老先生が言うことには「脳は自らを不死だと考えている」そうである。確かに、脳が機能している間は生きているということだし、脳が機能しなくなれば死んだということなのでもう考えることはできない。

だから、脳としては自分が機能しなくなった後のことを想定しないということである。なんだか、ネコには過去も未来もなく現在しかないというのとよく似ている。動物すべて本来そういうことなのかもしれない。

そう言われてみると、巷で言われている年金生活におけるおカネの心配というものは、書いている人も読者も、永遠に生きていることを前提として書かれているように思えてくる。その方が脳には心地よく響くだろうけれど、最近、ちょっと違うのではないかと思えてきた。

すでに還暦はとうに過ぎ、最近体のあちこちが老化してきたことを身にしみて感じる。前々から「100本中2本の当り籤」と書いているけれど、当り籤には当たらないで済んだとしても、体調を保つことがどんどん難しくなっている。

この変化は不可逆的であり、これから先ますます体は動かなくなり、遠からず「当り籤」ということになるのだろう。だとすれば、世間で言われている損得とかおカネの心配より、他にもっと差し迫ったことがあるのではないだろうか。

例えば、「あと1年でやりたいことができなくなるかもしれない」とすれば、ほしいもの、やりたいことの優先順位は「未来がずっと先まで続く」という場合とは違ってくるはずである。

「できなくなるかもしれない」要因は、社会的なものかもしれないし、家庭的なものかしれないし、自分の健康かもしれない。いくらおカネがあっても避けることができないことがほとんどであり、もしかしたら1年も猶予がないかもしれない。

最近、そんなことをつくづく感じるのである。最初の養老先生に戻ると、「脳」はできるだけそういうことを考えないようにする傾向があるので、意識してそう考えないといざそうなった場合に困ったことになる。

いきなり時間が進まないよう、スポーツジムに行ったりサプリメントを使ったりして体調維持には努めているものの、これから先は現状維持がせいぜいだと思う。未来がずっと先まで続くなどということは、どう考えてもありえない。

地位とか名誉とかおカネなんてものは、ほとんど「脳」が求めているものである。「体」は、毎日ぐっすり眠れておいしいご飯を食べて、ストレスなく毎日を過ごせればそれでいい。

リタイア以来、暑すぎず寒すぎない季節に、天気のいい日を選んで山を歩いて、いい景色を楽しむことができるようになった。現役でいれば、毎日4時間近くを通勤に費やし、ストレスに身を削っているであろう時間を、そうやって使えるのはたいへん贅沢なことである。

この歳になって大切なのは、「脳」が求めることではなく「体」が求めることであり、それを一日一日積み重ねていくことではないかと思っている。

[Jul 5, 2019]