085 宝篋山 [Apr 16, 2019]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

筑波山の近くに気になっている場所があった。宝篋山である。この山の麓には、箕作り集落があったという。伝説ではなく昭和30年代まで実際にあり、平成に入っても最後の箕作りと呼ばれる人物が暮らしていたという。

家から圏央道・常磐道経由で宝篋山小田休憩所に着いたのは午前9時、驚いたことに100台くらいは停まれる駐車場がほとんど空いていなかった。いい天気で風もなく絶好の行楽日和とはいえ、平日の朝である。

空いている隙間に何とか停め、身支度する。すぐ横の休憩所にはすでにスタッフが詰めていた。トイレをお借りして出発。登山道は駐車場の奥へと続いている。

「箕」とは大きなちりとり型をした農具で、藤や桜、竹などを材料とした。米粒ともみ殻を分けるのに使われ、農業機械が普及するまで米作農家に必須の農具であった。製作・修理には技術が必要で、農家の副業ではなく専業で行う人達がいた。「箕作り」「箕直し」と呼ばれる。

箕作りは決まった土地を持たず、季節ごとに仕事に適した場所に小屋掛けして移動生活を送った。柳田国男は論文「イタカおよびサンカについて」で、箕直しはサンカの一形態であると指摘した。彼らに注目したのが戦前の人気作家・三角寛で、三角の「サンカ小説」は一世を風靡したのである。

宝篋山麓の常願寺に箕作り集落があったことは、筒井功氏の著作や雑誌「マージナル」の特集記事で触れられている。

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筑波山に連なる山系の南端に近い山中に、常願寺という通称の土地がある。
どんな地図にも常願寺の地名は載っていないようだ。国土地理院の地形図にはもちろん、手元の住宅地図のコピーにも家は書き込んであるものの、地名は記していない。(筒井功「漂泊の民サンカを追って」)
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この常願寺が、宝篋山の登山ルートなのである。つくば市制作のガイドマップにも「常願寺ルート」と載っているくらいなので、地元だけの通称という訳ではなさそうだ。一説には、南北朝時代までその名を持つ寺院があった土地だという。峰続きの尖浅間山(とがりせんげんやま)から流れる沢も常願寺沢という。

明治時代から昭和三十年代まで多い時には七軒の家があり、年間三千枚を超す箕が作られていたという。箕一枚米一俵というから、現代の価値にして年商五千万円近いことになる。かなりの規模である。

しかし、現代では機械にとって代わられたため、筒井氏の言によれば「再び無人の地に戻りつつある」。その痕跡が遺されていないものだろうか。

いまの1/25000図には載っていないが、古い地図には登山ルートに沿って人家のマークがいくつかみられる。2019年現在、1軒だけ残っているのが、「最後の箕作り」が住んでいたという家かと思われる。

「最後の箕作り」については、30年前に作られていた雑誌「マージナル」8号から10号に取材記事が載っている。大正生まれで当時すでに68歳、いまご存命であれば90歳をとうに超えている。

当時からこの地は集落から離れた山林で、電気は通じていたが水道はなかったという。建物にはそう傷みはないが、チェーンが引かれ入れないようになっている。小田休憩所から30分かからなかったから歩いて来ることは可能だが、食糧や燃料を上げるのに何らかの輸送手段は必須だろう。でも、車もオートバイもないようだった。

そして、昭和半ばまでこのあたりに六、七軒の小集落があったのだという。登山道の両脇は藪で埋まっていてその名残りは見られないが、よく見ると地盤が平らに整った場所があり、奥に進む踏み跡もある。

何よりも、横を流れる常願寺沢からとだえることなく水音が聞こえて来るので、水の心配はなさそうである。筒井氏の本に載っていた蟹沢とか仏沢といった箕作りが住んだという小集落と雰囲気がとてもよく似ている。こんな場所で住めるのかといまなら思うけれども、私の子供の頃までこういう場所は珍しくもなかった。


アンテナ塔が見えるのが宝篋山頂上。平日朝9時にもかかわらず、駐車場は一杯でした。


のどかな田園地帯を尖浅間山(とがりせんげんやま、中央左)を目指す。その前に見える谷が常願寺沢で、このコースを常願寺コースと呼ぶ。


常願寺コースを少し登ったあたり、100年近く前に箕作りの小集落があったという。現在では藪になってしまい、比較的最近まで暮らしていた一軒しか残っていない。

 

そんなことを思いながら沢沿いに登って行くと、30分ちょっとでベンチのある場所に出た。「くずしろの滝」と立て札がある。滝というよりも岩の上に流れがあるといった小さなものであるが、そんなに高い山でもないのに、結構な水量がある。

くずしろの滝から宝篋山まで1時間とガイドマップにある。とりあえず目指すのは尖浅間山である。滑りやすい急坂をスイッチバックしていくと、そんなに苦労せずに「尖浅間山まで50m」の地点に着いた。標高320mだから房総と同じくらい。筑波山の800mと比べるとかなり楽である。

尖浅間山(とがりせんげんやま)には石積みの上に山名標があり、平らに広がった頂上にはテーブルとベンチがある。まだ休んでいる人はいないが、登ってきた人達と挨拶した。みなさん私同様シニアの単独行である。

さて、宝篋山といい尖浅間といい、登山道のコース名になっている極楽寺、常願寺といい、いずれも神仏にちなんだ命名である。というのは、麓にある小田城近くに真言律宗の拠点があったことによるものである。

真言律宗はその名の示す通り、真言宗と律宗の性格を併せ持つもので、教義としては真言宗に近い一方、戒律を重んじる律宗の再興という側面をもっていた。西大寺の叡尊を宗祖とし、叡尊の弟子である忍性が鎌倉幕府の後援を得てこの地を拠点とした。

鎌倉時代には大きな勢力を有し、例の日蓮四箇格言のうち「律国賊」というのは、真言律宗を指したものといわれる。そして、日蓮と確執があったとされる忍性の銅像が、宝篋山頂に建立されている。布教と併せて社会福祉・弱者救済に力を注いだ僧である。

忍性はここを拠点として布教したが、後に執権北条氏の援護のもと鎌倉に拠点・極楽寺を移した。極楽寺の周囲には、病人・老人・困窮者などを保護する施設として、施薬院・療病院・悲田院などが置かれたという。

鎌倉時代はすでに遠く、小田城も遺構を残すのみであり、真言律宗の大拠点がどこにあったか定かでない。とはいえ、寺の名前はいまだに山や谷の地名として残っているのだ。

尖浅間山から宝篋山までの稜線には、電子国土では1ヵ所小ピークが見えるだけだが、実際にはもっと小ピークがあり、登り下りが続く。とはいえ、房総の尾根道のようなきついアップダウンはなく、ゆるやかな遊歩道である。

標高にすると300~400mでも、こうしたおだやかな尾根道を歩けるとは、茨城県の山もなかなか奥が深い。時折、樹間から麓の景色が望める。足下には、いくつかの池が見える。灌漑用のものという。利根川・小貝川も近く、つくばねの峰より落つる男女の川(桜川)もあるのに、やっぱり広く田を開くには水の手はあるに越したことはないのである。

快適なアップダウンを歩いていくと、やがて峠地形が見えてくる。まだアンテナは見えないが、すでに宝篋山頂直下のようだ。木々の中には山桜も含まれていて、散った花びらが登山道にかぶさっていた。ところどころにベンチとテーブルが置かれ、ここで休んでいるグループもあった。なるほど、駐車場が満杯になる訳である。

ベンチのある広場を過ぎると城の中心部に至る道を分け、左手にバイオトイレが見えてくる。大きなアンテナ塔があってここまで車道が通じているのだから水道があってもいいような気がするが、ないようである。

バイオトイレから先は最後の急坂だが、ここから登山道と並行して車道も通っている。カーブを曲がるとアンテナ塔が正面に建ち、その左手に山名の由来となった宝篋印塔が見えてきた。

宝篋印塔の前には、手水場の代わりに手洗い車が置いてある。石を回して手を清めるということだろう。現在のものはそれほど古いものではないが、すぐ横に年季の入った石造りの残骸がある。おそらく江戸時代よりもっと古いものだろう。


1時間ほどで尖浅間山に到着。木のテーブルとベンチが置かれている。


尖浅間山から宝篋山まで、茨城県にもこういう尾根道があるのだと思わせる遊歩道である。


宝篋山頂にはアンテナ塔の建物の横に、山名の由来となった大きな宝篋印塔が置かれている。鎌倉時代のものという。

 

宝篋山頂には宝篋印塔と忍性和上の銅像が置かれており、その向こう側に十ほどのテーブルとベンチがあって、すでに一杯であった。というのは、そのテーブルの正面に筑波山の絶景が広がっていて、間違いなくここが宝篋山のベストポジションだからである。

左に男体山、右に女体山の頂きを望み、頂上を結ぶ稜線に点在するアンテナ群もはっきり見える。男体山側のルートの方が急傾斜で、女体山側の傾斜がゆるやかなのもよく分かる。女体山からつつじヶ丘への稜線はぐるっと右手を回って、いまいる宝篋山へと続いている。

宝篋山のベストポジションというだけでなく、もしかすると筑波山系のベストポジションではないかと思うくらい素晴らしい展望であった。

さて、標高400m余りの低山にもかかわらず、宝篋山にはいくつかの登山ルートがある。つくば市のトレッキングマップには東寄りの3コースと北寄りの3コースが描かれているが、この他に筑波山に向かうルートもある。

今回は東寄りの常願寺ルートを登ってきたので、下りるのは同じ東寄りでも別の小田城コースをとることにした。いったんバイオトイレの高さまで下りて、トイレの横からやや北向きに山の中へ入る。

この道がまた、延々と林の中を下って行くコースで、ちょっとヒザに響いた。標高差400mとはいえ、麓までずっと下り傾斜が続くのと、なかなか展望が開けない。

歩いていて、奥多摩や丹沢で標高差700~800m下っている時のことを思い出した。登りはそれほど長く感じなかったが、下りは長くてきびしい。きつい道は標高差にかかわらずきついのであった。

展望が開けないと書いたけれども、途中2ヶ所ほど麓に向けて開けている場所がある。一つ目は下浅間神社で、登山道から分かれて小さな祠に出るが、後でまた合流する。祠の前が広場になっていて、ベンチが置かれている。まだ標高が高いので、景色は雄大だ。

もう一つは麓近くまで下ったところにある要害展望所で、城の要害を模した展望台が建てられている。下浅間神社より200mほど低いと思うが、ちょうど国道の真上にあたる場所で眺めが開けており、とても景色がいい。

そして、地面に近い分、はるか彼方に地平線が見えるのがまたすばらしい。千葉ニュータウンの高層ビル群らしきものも見えた。よく考えれば千葉ニューから筑波山が見えるのだから、逆側から見えても不思議はないのである。

車を停めた小田休憩所に戻ったのは午後1時半、ちょうど4時間の山歩きだった。休憩所に「つくば市民研修センター」で日帰り入浴できると書いてあったので、トレッキングマップで場所を探して行ってみた。

市民研修センターはつくば市体育館の隣にあり、ここでも登山姿のグループを見かけた。北寄りのコースを選ぶとここに下りてくるようである。料金は440円と格安、だがボディソープだけでシャンプーの備え付けはない。

社会福祉協議会も兼ねた建物なので、わが印西市でもやっている地元高齢者のためのサービスであろう。私が入っている間にも2人、地元のおじいさんが入ってきた。カランは3つ、浴槽は4、5人は入れるくらい。「汗を流すには十分です」と案内に書いてあった。

お風呂に入った後休憩したり飲食したりすることはできないけれど、汗を流す分にはまさに十分である。この日は一日いい天気で汗もかなりかいたので、ちょうどいいリフレッシュになった。

帰りは下を通って2時間、筑波山系は何より近いのがいい。来年の冬も、また来ることになりそうだ。

この日の経過
小田休憩所(30) 9:30
10:10 くずしろの滝(140) 10:15
10:35 尖浅間山(320) 10:50
11:25 宝篋山(461) 11:45
13:00 要害休憩所(106) 13:05
13:30 小田休憩所
[GPS測定距離 7.3km]

[Jul 1, 2019]


宝篋山からは、筑波山を間近に望むことができる。ベンチはすでに一杯で、さらに登ってくる人が続いた。


下りる途中には何ヵ所か展望台がある。これは下山口に近い要害展望所からの景色。


帰りにつくば市民研修センターのお風呂で汗を流した。440円とお手軽。