265 福井勝義「焼畑のむら 昭和45年四国山村の記録」 [Aug 14, 2019]

この本は、当時すでに奥深い山村で最後の焼畑集落と呼ばれた椿山(つばやま)を舞台とした調査報告と関連論文をまとめたものである。初版は1973年と45年前であるが、最近になって(2018年)復刊された。

椿山は、四国遍路で歩いた岩屋寺からさらに奥に進んで県境を越え、国道から数km奥に入った標高500mを超える高地にある。調査当時でも30戸ほどの小規模な集落だったが、平成26年に定住しているのはわずか1戸、家の維持管理に通う人もおり、郷土芸能は続けられているということだが、WEBの秘境サイトにもでてしまうくらい人里離れた土地になってしまった。

著者は当時、京都大学農学部におり、学部横断的な調査グループを立ち上げて調査した。専門分野であるから農業技術的な「焼畑」がもともとの関心分野だったと思われるが、徐々に文化人類学、民俗学の分野に重点が移ったようで、国立民族学博物館、京都大学総合人間学部の教授を歴任した。2008年、まだ64歳の時に亡くなっている。

この本を読んでいて引き込まれるのは、焼畑の技術的な側面、手順や農作物といった分析よりも、山村における人々の暮らしぶりや親戚・近所付き合いなどの記事である。特に、調査当時行われていた村長選挙に対する村人の熱の入れようはすさまじく、元村長・対立候補の人柄やそれぞれの支持者の構成などが細かく記録されている。

こうした著者の関心の深さは、当時の学生運動という側面もあったかもしれない。多くの大学で授業ができない状態になり、東大などは入学試験を行えなかったくらいである。そうした中、山村のフィールドワークに努力した著者は学生運動自体には消極的・批判的だったと想像するが、いずれにしても旧来の政治への関心は強かったに違いない。

「むらを生きる」という章では、この地で長年生きてきた人々の話が語られるが、まるで宮本常一の書いたものを読むようである。1970年当時の年寄りだから明治半ば以降の生まれであるにもかかわらず、病気やケガがもとで多くの人々が寝込んだり死んだりした経緯が細かく語られる。

「医者がいないから拝み屋に拝んでもらった」などという話は江戸時代かフィクション(飛んで埼玉)と思っていたら、昭和初期になってもまだ実際にあったのである。そういう話を聞くと、全国どこにいっても衛生的な環境が保たれていて、医師の質もほとんど一律であるという現代は、得難いものであることが分かる。

栄養状態もよくなくて、椿山では鶏もいなければ魚も伊予から入る干物くらい、そもそも焼畑なので米がとれないという状況であったから、病院にも滋養のあるものを食べさせられなかった。とはいえ、現金収入は周辺の村よりあって、その大きな要因は焼畑でできるミツマタであった。

ミツマタは和紙の原料となり、コウゾよりも高く売れたようである。とはいえ、現金収入があることはいいことばかりではない。酒やバクチで浪費してしまう人や、事業に失敗して借金をする人も出てきた。

椿山で行事や共同作業の後に行われる打ち上げ宴会のことを「ケチガン」というようだ。四国遍路の結願である。遍路用語が先だったのか、当地の民間語彙である「ケチガン」が先なのか、興味深い。


1973年に刊行された作品だが、昨年(2018年)復刊された。当時の貴重な写真も載せられている。