074 兼好法師「徒然草」 [Oct 9, 2019]

昔、受験の頃は「吉田兼好」と覚えたものだが、兼好の時代にはまだ吉田姓は使われておらず「卜部」だったので、いまは兼好法師が作者ということになっているらしい。いずれにしても、通読したのは今回はじめてである。

試験勉強ではないので、現代語訳を読んで気になるところは原文を当たるという体力節約的な通読である。探してみると、現代語訳は内田樹先生がなさっている。ユダヤ語訳をしている先生なので勘どころはつかんでいるとしても、畑違いで大変だっただろう。

それはともかく、兼好法師の正体はよく分からない点が多い。吉田神道の吉田兼倶が先祖だと主張しているので吉田家の先祖である卜部氏であると思われることと、従五位蔵人という位階があること、勅撰和歌集に何首も選ばれているので公家であることは確かと思われるが、「徒然草」自体が兼好法師の死後まとめられたものなので、確かなことは不明である。

ただ、通読してみると、いくつか気になることがある。まず、全体に順不同であり、同じような内容が違う場所で何度も出てくるということである。ということは、本人が一時に書いたというよりも、誰かが後からまとめた可能性が大きいように思う。そして、後から追加していったので、現在ある形になったのではないか。

その意味では、生前に交流があった今川了俊(今川義元の先祖)が、兼好法師の弟子に集めさせたという俗説は、疑わしいとされているが結構真相に近いのかもしれない。了俊には経済力があり、そういう手間暇をかけるだけの余裕があったからである。(今川氏は代々東海地区の守護大名で、文化には造詣が深い家系である。)

公家とはいっても、卜部氏は神祇をつかさどる家系であり、藤原氏ではないのでいわゆる上流貴族ではない。だから京都生まれ京都育ちとは限らず、金沢文庫(もともと鎌倉執権北条氏のコレクションである)に「うらべのかねよし」の動向を伝える資料が残っていることから、何らかの形で鎌倉に縁故があったらしい。

それを裏付けるように、「徒然草」の中には鎌倉幕府、特に北条氏の人物についての記事が多い。兼好の生きた時代は鎌倉末から南北朝の時代である。幕府滅亡とともに一族自刃した北条氏に関して好意的な記事を残すことは、南朝はもちろん北朝にとっても面白くなかったはずだが、太平記もそうであるように価値観が多様化していた時代なのだろう。

神祇官の家柄とはいえ、勤めは藤原氏の使用人的位置づけであった。兼好が勤めていた蔵人も藤原氏出身の姫が入内したことに伴うもので、天皇や上皇(院)に直接仕えるものではない。そのせいもあり早くから出家したようで、神道に関する記述は少ない。

半分近くを占めるのは宮中におけるさまざまの故事来歴やしきたりに関することである。兼好の博識が示されるが、その知識が生かされるのは上級貴族へのアドバイスに際してだけであって、おそらくそうしたことへの不満があったのだろう。

「知っていることでも知らない顔をしていた方がいい」、「財などあってもムダなだけだ」、「老いたらいつまでも第一線にいるべきではない」などなど、兼好の人生観は徒然草の中に繰り返し語られる。

「つれづれなるままに」で始まる冒頭の文章は、「あやしうものぐるほしけれ」で終わる。物苦しいとは強い表現で「ある坊さんが念願の石清水八幡宮にお参りしたが、男山の麓まで行って帰ってきた」とか「田圃の中で地蔵様を洗っている人がいた。誰かと思ったら昔の大臣だった」なんて話が物苦しいとは思えない。なぜなんだろうと思っていた。

おそらく、書いていると昔のいろいろなことが思い出され、いたたまれない気持ちになったのだろう。いくら知識があっても、身分の壁があるのでこれ以上の出世は望めない。それを考えると、質素で堅実な武士の生活がうらやましいという気持ちが、行間からにじみ出ているように思うのである。


最近出た現代語訳は、内田樹先生が訳されてます。ユダヤ語訳もなさっているので、勘どころは押えているに思います。カップリングの高橋源一郎「方丈記」はちょっと・・・。

 

たびたび登場するのが寺や僧侶の話題である。兼好が得度したのは比叡山横川とされているが、御室に住んだことから仁和寺についての記事が多く、鎌倉ゆかりの真言律宗や浄土宗についても何段か書かれている。

教科書によく載っている「先達はあらまほしきものなり」は仁和寺の法師の話だが、どうみてもあまり誉めていない。仁和寺は兼好法師のご近所ではあるものの真言宗御室派で、比叡山延暦寺とは関係が遠く、そういったこともあるのかもしれない。

西大寺(真言律宗)の高僧が宮中に参内した時、「年寄りなだけだ」と参議の日野資朝が言い放ち、「歳取っているのが尊ければ、これはどうです」と毛が抜けた老犬を連れてきたなんて話もある。資朝は後醍醐天皇のお気に入りで、建武以前の討幕計画に連座して処刑された。太平記では亡霊となって登場する。

たいへん興味深かったのは、法然の弟子の宗源が東二条院(後深草天皇中宮)に「死者の供養には何がいいでしょうか」と尋られれて、「光明真言、宝篋印陀羅尼がよろしいでしょう」と答える段である。

あとから弟子達に、「何で念仏って言わないんですか」と問われて、「そう言いたいのは山々だが、経文のどこに根拠があるか尋ねられたら困る。だから根拠が明らかな光明真言と宝篋印陀羅尼と答えたのだ」と答えるのだが、実はこの「念仏が経本のどこに書いてあるか」というのは、信長の「安土宗論」にも出てくる質問なのだ。

光明真言はお遍路をする際に札所で必ず唱えるものだし、宝篋印陀羅尼は房総の宝篋印塔山、茨城の宝篋山など、最近おなじみである。こうしてみると、鎌倉時代がついこの間のように思えてくるから不思議である。

兼好が酒好きだったことも徒然草のいたるところに現れている。「人に無理に酒を勧めるというのは、何を考えているのか全く分からない」とか「すぐに言い争いになり、次の日は具合が悪くなる」とか言うから酒嫌いなのかと思ったら、その舌の根も乾かないうちに「気の合う友と呑みながらしみじみ語り合うのはいい」などというのである。

そして、例によって鎌倉の話。北条時頼が夜分若い武士を呼び出した。あわてて行ってみると酒と盃を用意していて、「一人で酒を呑むのも寂しいので呼んだのだ。みんな寝てしまったので、何か酒のアテを探してきてくれ」と言われる。若い武士が台所で味噌を見つけて持ってくると「これで十分」と気持ちよく呑んだなどという話は、酒好きでないと書けない話である。

さて、徒然草に書かれている人生訓の多くは、兼好が仕えていた堀川(本姓は藤原)具親が後醍醐天皇の怒りにふれて官位剥奪のうえ謹慎を余儀なくされた時代の、いわゆるカウンセリングノートではないかと言われている。

お怒りに触れてというのは、後醍醐天皇お気に入りの女官を口説いて連れ去ってしまったというもので、その女官というのが「神皇正統記」北畠親房の妹であったというのだから、狭い世界の中の出来事である。後醍醐天皇の女好きは有名だから、それほど悪いことだったか疑問ではあるが、ともかく公文書に「女で事件を起こし官位剥奪」と書いてあるそうだ。

だから、徒然草の中に、「妻は持たない方がいい」「女はつまらないものだ」「たまに会うくらいがちょうどいい」と書かれているのは、そういうご主人様に向けてのカウンセリングという側面があると考えられる。「高僧の説教を聞きに行ったら、香の匂いをぷんぷんさせた女がしなだれかかってきたので、途中で退出した」なんて話もある。

年金生活者にとって、心すべき言葉が第123段に書かれている。衣食住に、医薬を加えて4つ。これらがささやかなりとも充たされていれば、それ以上を求めるはぜいたくである、というのである。

いまから千年前に書かれているのだが、これは今日にも通じる言葉である。中国の故事に、「健康で住む場所があり、今日明日食べるものがあればそれ以上求めるべきではない」というけれども、心身の不調を癒す医薬も、クオリティ・オブ・ライフを維持するのに不可欠である。

リタイア生活を送ってはいても、時には歯も痛くなれば頭が痛い日もある。そうした痛みを取り除くことは、衣食住に加えて大切である。酒やいろいろな楽しみはなくても何とかなるし、地位や財産はあるだけストレスのもとだと兼好法師もおっしゃっている。そのとおりである。

[Oct 9, 2019]