720 七十二番曼荼羅寺 [Oct 16, 2018]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

2018年10月16日、サニーイン3日目の朝は、この遠征で初めて目覚ましが鳴るまで起きなかった。21時就寝の6時起床だから家にいる時と同じで、睡眠は十分である。前日と違ってだるさはないけれども、肩の痛いのは相変わらずだ。残り少ないロキソニンテープを貼る。

このホテルはチェーンホテルと違って設備は古いけれども、客室は広くて荷物を広げても狭さを感じないし、伸び伸びする。BSが映るのもいいところで、田中陽希の百名山を見て、テレビ体操をして、7時からの朝食時間を待つ。

7時になったので1階のレストランに下りると、テーブルはほぼ埋まっていた。出張客や作業服姿のグループがすでにごはんを食べていたので、7時前から大丈夫だったようだ。前日まで予定どおり進んでこの日はスケジュール的に余裕があるので、急ぐ必要はない。

朝食は、洋定食をお願いする。前日までと違って長距離を歩く訳ではないし、そろそろトーストが食べたかったのである。目玉焼きは、両面しっかり焼いてくれるようにお願いする。香港・マカオだとスクランブルエッグにできるのだが、日本のビジネスホテルでそこまでできない。

支度が終わってリュックを背負うと、意外と軽く感じた。体調のせいもあるのかと思ったが、帰りの飛行機では預けた荷物の重さが1kg以上軽かったから、実際に軽くなっていたようである。

何が減っているか考えてみると、思いつくのは非常食と納札用100円玉である。100円玉の重さは約5gだから、1本50枚で250g。非常食のカロリーメイトとかヴィダーインゼリーは合計500gくらいのものだろう。後は薬とか消耗品、電池だろうか。合計1kg超というのは結構大きい。次回からの検討事項にしなければならない。

予讃線の本数は日中は1時間2本で、通勤通学時間帯はもう少し本数がある。あまり気にしないで駅に向かう。みの駅まで260円の切符を買って、ホームに止まっていた高松行きに乗る。高校生でいっぱいだ。

観音寺からみのまでは、本山、比地大(ひじだい)、高瀬と3駅。前日歩いた県道・国道から線路まで離れているので、車窓の景色は歩いていた時とは違う。以前、出張で来た時は特急を使っていたので、しみじみ見たのは初めてだった。

車掌さんに切符を渡し、みの駅で下りる。午前8時半、まずは県道をまっすぐ進み、右折して国道11号を目指す。前日、弥谷寺への往き帰りで通った道と交差する。前日の帰り道は相当遠回りしたことが改めて分かる。

県道の両側は住宅地から休耕中の田圃となり、虫がやたらと寄ってくる。ビジネスホテルMISORAでは、川の近くにあるのに虫の少ないところだと思ったが、四国すべてそういう訳ではないようである。

国道11号に出たところに、「みの駅まで1.5km」の標識があった。1.5kmなら意外と近いし、完全に徒歩圏である。迷わないで弥谷寺から下りて来られれば、30~40分しかかからなかったかもしれない(実際は1時間20分かかった)。

ここから結構な登り坂で、左手に弥谷寺を見ながら進む。目の高さが道の駅と同じくらいまで登ったので、標高100mくらいあるのだろうか。峠にあたるのが鳥坂と書いて「とさか」、この名前は西予・大洲間にもあった。

こちらの鳥坂は登り坂の頂点にあるだけで、危ないトンネルはない。「名物鳥坂まんじゅう」と看板のあるお店の前を通るが、朝早いためやっていない。ここから下りになる。ため池に向かってゴルフ練習場があり、その脇を左右にカーブしながら国道は下って行く。


観音寺サニーインの朝の洋定食。前日は和定食だった。トーストは今回の遠征で初めて。

みの駅から国道11号に出て、前日歩いた弥谷寺の横を通る。左が弥谷山で山腹に白くみえるのが道の駅。


我拝師山の方向に右折、まず曼荼羅寺にお参りする。後方が我拝師山

 

善通寺の市街地が見えてきたあたりで、道は左右に分かれる。左が国道11号線で、右が曼荼羅寺・出釈迦寺に向かう県道である。県道も片側一車線で、同じくらい幅がある。分岐してすぐの場所に、遍路休憩所があった。ベンチに屋根がついた簡単な造りだが、背面に七十一番から七十五番善通寺までの地図がある。

その地図に曼荼羅寺まで1.3kmとあったので、そのくらいなら休まないで歩いてしまおうと先に進む。気持ちのいい坂道をのんびり下っていくと、ラブホテルの先まで進んだところで曲がるべき道を曲がらなかったことに気づく。適当なところで右に折れたら、向こうから外国人が歩いてきた。どうやら、次の甲山寺に向かう道だったようである。

多少遠回りにはなったものの、ほとんどタイムロスはなかったようで、9時45分曼荼羅寺に到着した。

我拝師山曼荼羅寺(がはいしさん・まんだらじ)、曼荼羅寺と出釈迦寺は同じ我拝師山を山号とするが、弘法大師が修業したという背後の我拝師山からとったものである。この山について、五来重氏は修験道の若一王子からとった「わかいちさん」がもともとの名前で、弘法大師以降にお大師様を顕彰する「我拝師」となったものと考察している。

そもそも、この場所が弘法大師以前から行場であったことは間違いないので、その時点で「我が師を拝む山」という名前は考えにくい。それよりも、若一王子の祀られていたであろう曼荼羅寺の背後の山を「若一山」とする方がずっと自然である。

いずれにしても、もともと曼荼羅寺と出釈迦寺はひとつの寺で、出釈迦寺は捨身ヶ嶽に向かう奥ノ院であったようである。平安時代末の西行(1118-1190)が「曼荼羅寺の行道所へ登るは一大事にて、手を立たるやうなり」と書いている。現在の出釈迦寺も捨身ヶ嶽禅定も含めて曼荼羅寺なのである。

さて、曼荼羅寺は出釈迦寺に比べると平地に建っていて、境内も広々としている。周囲を見回すと、まず間近に迫っているのは我拝師山であり、そこから右に視線を移すと天霧山の削られた山肌が見える。

この天霧山、弥谷山とは峰続きで、山中を北に抜けると海岸寺に達する。天霧城は戦国時代まで香川氏の居城だったが、香川氏は長宗我部氏に敗れ、長宗我部氏も秀吉に敗れ、四国は蜂須賀、山内など元秀吉配下や、徳川譜代の松平氏、仙台伊達藩の分家筋の統治するところとなったのである。

天霧山の採石は本四架橋や高速道などの建設ラッシュ時に始まった。現在はそういう時代でないとはいうものの、一度始められた採石がそう簡単にやめられないことは、高速道路の建設がなんやかやと言い訳をつけていまだに続けられていることでも明らかである。

秩父の武甲山や房総半島の山など、かつて建設ラッシュ時から採掘された山でいまも採石が続けられている。自然保護のうるさい昨今、行政は新たな許可を出すよりすでにある許可を延長する方が面倒がない。そして近年は、塩によるコンクリートの劣化が早いため海砂は避けられる傾向にあり、こうした内陸部の山は引き続き崩されてしまう運命にあるのだ。

その天霧山の麓を抜けてくるのが曼荼羅寺道で、いまも古くからの丁石が残る古道である。曼荼羅寺にもパンフレットが置かれているが、平成26年に鶴林寺・太龍寺へ通じる阿波遍路道と同様に国指定の史跡となった。

曼荼羅寺の寺号は、弘法大師が帰朝後この寺を整備する際に、金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を納めたという故事に基づく。創建はそれより古く推古天皇の時代に、佐伯氏(空海の実家)の氏寺として建てられたとされるが、仏教導入の是非が政争となる時代にそこまでしたかという疑問が残る。

それよりも、我拝師山はもともと修験道の行場として古くから霊場・若一山とされており、空海もまずここで修行したのだと考える方が自然である。後に平安仏教の一方の立役者となった弘法大師を顕彰する意味で、我拝師山となり曼荼羅寺となったのではないかと思われる。

そして、平安時代末には、西行がこの寺をたいへん気に入り、すぐ近くに庵を結んでたびたびここを訪れたという。出釈迦寺に向かう途中に「西行庵」の案内がある。

当時は天霧山も削られておらず、さぞ雄大な景色だったろう。広い境内には、本堂・大師堂の他、観音堂、護摩堂、地蔵堂など多くのお堂がある。また、大師お手植えの松を彫って作った笠松大師(平成になって松食い虫のため枯れてしまった)や、西行の歌碑があり、朝早くから大勢の参拝者が訪れていた。

この日の経過
(観音寺サニーイン[電車]→)JRみの駅 8:25 →[5.5km]
9:45 曼荼羅寺 10:05 →

[Jan 11, 2020]


曼荼羅寺本堂。ここは平地なので境内は広々としている。


鐘楼・納経所方向。大師堂は鐘楼の向こう側にある。


本堂の背後の山は弥谷寺から峰続きの天霧山。かつて山城があり、弥谷寺の水場を使っていたという。山腹に曼荼羅寺への古い遍路道がある。