089 宝篋山(極楽寺・山口コース) [Dec 6, 2019]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

2019年は春の終わりに北岳に登って以来、しばらく山歩きをすることができなかった。

9月になっても暑い日が続き、台風も来た。9月終わりからお遍路歩きで、その最中に体調を崩してしまった。追い打ちをかけるように台風が続けざまに来て、全国各地で大きな被害を受けた。

ビジターセンターなどのHPを見ると、まだ奥多摩も丹沢も秩父も歩ける状態ではない。そもそも、登山道がどうなっているか確認すら終わっていないのである。そんな時期に、遊びに行くのも不謹慎である。そうこうしている間に冬になってしまい、気温をみると氷点下というところも少なくない。

ただ、あまり間を開けると足腰が弱ってしまう。房総は9月10月の暴風雨で被害が大きかったけれど、筑波山塊はそろそろ大丈夫だろう。あまり寒くならないうちに、宝篋山を歩くことにした。

12月6日の金曜日、この日は奥さんがパートなので、車が使えない。倍近く時間がかかるが公共交通機関を使う。電車・バスでこの山域に行くのは初めてである。成田線と常磐線で土浦まで1時間、7時20分の筑波山口行バスに乗る。

早い時間のバス停には長い行列ができていて驚いたが、ほとんどが土浦一高の生徒さんだった。ここを過ぎると、車内には空席の方が多くなる。30分ちょっと乗って、宝篋山入口バス停で下りる。

横断歩道を渡り、山沿いの道を少し入ると宝篋山小田休憩所である。50円のチップを入れて、トイレをお借りする。このチップは、ボランティア活動や山頂の忍性上人像の建設資金に使われるということである。

身支度を整えて、8時20分出発。風もなく穏やかな日和だが、翌日には冷たい雨になる予報で雲が多い。小さな流れの沢に沿ってゆるやかな坂を登っていくと、極楽寺コースと常願寺コースの分岐となる。前回、常願寺コースを登ったので、今回は極楽寺コースである。

極楽寺は現在鎌倉にあるが、その前身となったのがここにあった極楽寺である。両方とも忍性の開基による真言律宗の寺院で、鎌倉幕府のバックアップを受けて栄えた。小田は常陸守護である八田氏が小田城を築いたので、まずここに関東布教の拠点を置き、さらに幕府のある鎌倉へ移った。真言律宗の本拠は奈良・西大寺である。

かつての極楽寺は小田休憩所から宝篋山にかけての山麓にあり、五輪塔や地蔵菩薩石像、鎌倉墓と呼ばれる多くの石碑や祠が遺されている。それらの遺構を左右に見ながら、谷に沿って徐々に標高を上げていく。

初めは大きく聞こえていた沢の水音が小さくなると源流で、ここからは尾根に上がる急登である。急登とはいっても、ロープが下がっているような急斜面はほとんどない。つくば市のトレッキングマップに書いてある時間どおり、小田休憩所から純平歩道合流点まで50分で着いた。


前回は常願寺コースだったので、今回は極楽寺コースを登る。宝篋山に直接登るルートだ。


鎌倉時代に極楽寺のあった跡には、五輪塔、地蔵菩薩石像などが遺されている。


谷沿いの沢筋を詰め、そこから尾根までは急登になる。

 

なだらかに登る純平歩道をしばらく南下した後、再び急登を宝篋山頂上に向かう。丹沢や奥多摩に比べて標高が低いので、200m登ったくらいではまだ林の中である。展望など全く開けない。

それでも、20分ほど登っているうちに上方に空間が見えてきて、尾根が近づいた。人気の山だけあって、多くはないが登る人、下りる人とすれ違ったり追い越されたりする。いくつかあるベンチで休憩している人もいる。気がつくと、常願寺コースとの合流点になった。ここまで来れば、頂上はもうすぐである。

宝篋山は鎌倉時代に極楽寺が栄えた頃、頂上に宝篋印塔が置かれたことでその名があるが、戦国時代には山城となり、ここに曲輪や空堀が築かれた。なるほど平坦になって平らになっているので、ここに城塞や倉庫があったのだろう。坂が緩やかになるので、歩いていても助かる。

トイレの前の広場では”Tsukuba Fire Department”のユニフォームを着ている十人ほどが訓練をしていた。車が何台か止まっていたから、アンテナ塔まで車道で、その後は林道を来たのであろう。

トイレ横からアンテナ塔の横を通ると、宝篋印塔と忍性上人像が見えてきた。宝篋山頂上である。小田休憩所から約1時間半、ベンチで腰を下ろしたけれど休憩なしで461mの頂上まで登ることができた。

前回登った時には休憩ベンチが満席であったが、この日はほとんど誰もいなかった。筑波山を見通す特等席は私だけで、リュックを置き、テルモスでコーヒーを淹れて買ってきたパンでお昼にする。

とちおとめホイップクリームのクロワッサンと、レモンのデニッシュ。今回は果実味で攻めてみた。ベンチに座って左右を見渡す。曇りがちの天気だったが地平線近くはそれほど雲がなく、富士山も見えた。

筑波山のすぐ左に見えるのは日光白根山である。そこから途切れ途切れに続くのが上信越の山々、秩父、奥多摩と続いて富士山の近くが丹沢と箱根だろう。富士山のすぐ右に見覚えのある頂上は八ヶ岳である。

筑波山塊は関東平野の真ん中にぽつんとある独立峰なので、広大な関東平野とその背後にある著名な山々が一望のもとにある。平将門もここに来て。我こそは関東の盟主と思ったのだろうか、とふと思う。

15分ほどそうやって景色を楽しんでいると、突然あたりが騒がしくなった。十数人の老人クラブらしき連中が登って来て、大声で騒いでいるのである。

なぜにこんないい景色のところで、大騒ぎしなければならないのだろうと思う。こういう連中は、きっと子供の頃から群れをなして騒いできて、そのまま70、80になったのだろう。死なないと治らない。

とはいえ、騒ぐのは気に入らないが景色は私だけのものではない。荷物を片付けて、筑波山の逆側のベンチに移動する。こちらも霞ヶ浦や北浦が見えてたいへんいい景色なのだが、悲しいかなちょっと寒い。そろそろ、出発することにしよう。

下りは山口コースという北側の麓に下りるコースをとることにした。どこから下りるのか分からずうろうろしたが、先ほど移動した霞ヶ浦側のベンチから少し下りると「山口コース1→」の案内があった。

このコースを少し下りると、変なモニュメントがある広場に出た。「万博記念の森」と書いてあり、多くの人名が彫られている。読んでみると、筑波科学博を記念して、朝日新聞が全国に呼び掛け苗木を植える活動をしたということである。その活動に寄付をした約2万人の名前が一人一人彫られているのであった。

寄付をしたうち何人かはこのモニュメントを見に来たかもしれないが、大多数は見たこともないだろう。科学博からすでに30年以上が経ち、せっかくの刻まれたお名前も錆びたり薄くなってしまっている。

石碑も100年経つ頃には風雨にさらされて読めない字が多くなる。名前を残そうとしたところで、なかなかうまくはいかないものだと妙な感想を持ったのでありました。


宝篋山は山城だっただけあって、山頂部は平坦地で広くなっている。


最後にアンテナ塔の建物左を登って宝篋印塔と忍性像のある山頂に達する。


この日は曇りがちながら絶景で、晩秋の筑波山が見事。左に目を移すと、日光連山、上越の山々と続き、ずっと西には富士山や八ヶ岳も望むことができた。

 

万博記念モニュメントを過ぎて、なだらかな坂を下って行く。1ヶ所ロープが張ってあったけれど、急傾斜というより地盤が滑りやすいのが気になったくらいで、他に歩きにくい場所はなかった。

案内表示によると、登りの極楽寺コースは400mの標高差に対して距離は約2km、下りの山口コースは約4kmだから、歩く距離は長いけれども傾斜はずいぶんなだらかだ。道も枯葉の積み重なったクッションの効いた地盤で、ごつごつした岩は多くはない。

40分ほど下ると、宝篋水という場所に出た。大きな岩の周りから、水が落ちている。ただ、かなり標高が下がったところだし、上にはアンテナ塔の道路もあるから、いまでも水場として利用できるかどうかは分からない。昔の人は利用したのだろう。

こちら山口コースは人通りが少なく、宝篋水のあたりで初めて人とすれ違った。シニアの夫婦連れだった。ゆるやかなので登るのは楽だが、景色が開けたところはなく、ベンチもない。スペクタクルな風景を楽しむなら西側の3コースで、このコースは下山用に使う方がいいかもしれない。ヒザへの負担は確実に少なくて済む。

さらに下ると、今度は作業服姿のおじさんとすれ違った。手ぶらなので登山客ではない。そのすぐ下に軽トラが止まっていて、そこから先は簡易舗装だった。簡易舗装道路を100mほど下ると、景色が開けて下山口に着いた。山頂から1時間20分、下りも休憩なしで下れた(休むところもなかったが)。

下山口からは集落の中のちゃんとした舗装道路を歩く。立ち寄り入浴のできるつくば市民研修センターまで20分ほど歩くと、入浴は午後1時からでまだ50分ほど先である。せっかくなので、バスの時間を確認してから近くにある平沢官衙遺跡に行ってみた。

バス停から5分ほど歩くと、小高くなった斜面に大きな高床式倉庫のような建物が見える。道路沿いに建っている案内所に入ると、案内員のおじいさんがパンフレットをくれて説明してくれた。

「ここは平沢官衙遺跡といって、平安時代の役所跡です。官衙というのは役所のことですが、ここに建っていたのは役所の倉庫で、役所本体は住宅地の下にあって掘ることはできません。」

「平沢というのはこのあたりの集落の名前です。常陸国筑波郡の役所と考えられるので、筑波官衙遺跡と名乗りたいところなのですが、いろいろ難しい問題があってこの近くの集落の名前をとっています。」

「平安時代の役所跡が大規模に発掘されたのは全国でもほとんど例がなく、再現建物があるのもここだけです。国の史跡に指定されています。」

「高床式倉庫が十数棟並んだ大規模な倉庫群で、当時の税である米や布などが納められていたと考えられます。そのうち3棟を再現しましたが、数億円かかりました。」

説明を聞いた後、再現建物のすぐ近くまで行ってみる。平成になってから建てたものなので、まだ新しい。真ん中の1棟は土壁に漆喰が塗られていて、左右の2棟は木の外壁、校倉である。床は3mほどの高さがあり、私の背よりかなり高い。

これだけの倉庫が数十もあったということは、保存されていた米や布も大量にあったということで、治安もよかったのだろうし盗賊から守る武力もあったのだろう。

平安時代というと荘園がすぐ念頭に浮かんできて、収穫物の多くは藤原氏に横流しされていたような印象があるが、よく考えれば道長の時代まで受領(現地赴任する国司)はたいへん実入りのいい役職であった。

「受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ」と今昔物語に載っているくらいだし、ピンハネしただけでひと財産築けたのだから、本体はもっと膨大だったのだろう。これだけの大規模な建物や収蔵物があるのだから管理する武力も必要で、平将門のような武士がいないと盗賊を防ぐのも大変だったに違いない。

この遺跡を見学していたら、ちょうどお風呂に入れる時間になった。あまり標高が高くなかったので、久々の山だったが足腰が痛むこともなかった。

この日の経過
宝篋山入口バス停(26) 8:00
8:05 宝篋山小田休憩所(26) 8:20
8:30 極楽寺跡(41) 8:35
9:10 純平歩道合流(234) 9:10
9:55 宝篋山(461) 10:30
11:50 下山口(39) 11:50
12:15 平沢官衙バス停(28)
[GPS測定距離 8.0km]

[Jan 27, 2020]


山口コースは、西側の登山路よりも距離が長い分傾斜は緩やかである。


頂上から1時間半ほど歩いて、北側の下山口にあたる山口集落まで下りてきた。


下山口の近くにある平沢官衙遺跡。平安時代の役所で、再建建物は倉庫だったと考えられている。