610 馬頭観音考 [Feb 3, 2020]

宝篋山から平沢官衙遺跡を歩いた日、遺跡の前にある北条大池を通って行った。この池は灌漑用に造られたもので、現在では桜の名所として賑わう場所ということである。

その北条大池の湖畔に、「馬頭尊」と太く彫られた大きな石碑がある。近くに寄ってみるとその横に細く消えかけた「つちうら」の文字があり、江戸時代に道標を兼ねて建てられたものと考えられる。

「馬頭尊」とは、観世音菩薩が六道を救うためにとる形の一つ、馬頭観音である。観音菩薩は六道の各世界に、聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、不空羂索観音(真言宗では准胝観音)、馬頭観音の形で現われて、衆生を救済するのである。

子供の頃、成田街道の近くに住んでいたので、昔から馬頭観音碑は多く目にしてきた。そして、いま住んでいる千葉ニュータウンも馬頭観音碑の多い土地である。今日はそのことについて書いてみたい。

馬頭観音の多くは、北条大池や成田街道沿いのように、人間や貨物の往来が多い街道沿いに祀られている。自動車以前、物資の輸送に使われていたのは主として馬であった。

牛も短距離輸送や農耕に使われたのだが、街道の中長距離輸送となると馬が中心であった。合戦で牛に乗った武将がいないのと同じ理由で、速度が違うこと、小回りが利くことといった点で馬が優れていたためだろう。

明治時代まで、物資輸送を請け負う馬子(まご)や、馬の売買をあっせんする馬喰(ばくろう)がどこの村にもいた。現代ではカーディーラーやトラック事業者が全国どこでもあるのと同じである。

それだけ多くの馬が輸送に使われていたということは、仕事途中で倒れた馬も少なくなかっただろう。街道沿いの馬頭観音は、もともとそれらの馬たちを供養する目的で建てられたと考えられる。確か、中山競馬場にも馬頭観音があった。

仏教伝来以来観音菩薩は知られており、法隆寺の百済観音や薬師寺の聖観音は飛鳥時代・奈良時代にさかのぼる。けれども、庶民の間に広がったのは、観音様が大活躍する法華経が広まる室町時代以降であると考えられる。

いまでもそうだが、庶民の多くは経典を調べることはしない。観音様とお大師様、うっかりするとお稲荷さんや天神様との区別だって怪しいものである。だから、僧侶や学識のある有力者(庄屋とか)に教わって、ありがたいものだと拝んだに違いない。

鎌倉仏教の中で法華経を重視したのは日蓮である。日蓮宗には商工業重視の色合いが強い。輸送業でも日蓮信者は少なくなかったはずで、馬を供養するのに観音菩薩の六変化のうち馬頭観音を選んだに違いない。

そうした背景から街道沿いに馬頭観音像、馬頭観音碑が多いのだが、そうした立地以外でも馬頭観音を見ることがある。千葉ニュータウンでは、よく探すといろいろな場所に見つけることができる。

千葉ニュータウンといってもかなり広いが、現在の千葉ニュータウン中央から印西牧の原のあたりには、幕府の牧場があった。「牧」の原という町名はそれがもとになっている。

その名残りで、大井競馬の小林分場にはいまでも厩舎があるし、かつて中山競馬の白井厩舎があった場所は競馬学校となり、JRAの騎手を養成している。関連する民間の施設も、いまもいくつか残っている。

そのように多くの馬が育成・調教されていた地域なので、当然のことながら死んでしまう馬も多い。おそらく千葉ニュータウンで見かける馬頭観音のいくつかは、そうした馬が葬られた場所であろう。そう思ってよく見ると、集落から少し離れて、谷に向かって下がって行く地形が多いように感じられる。

[Feb 3, 2020]


筑波山麓の大池公園にある馬頭尊石碑。平沢官衙遺跡のすぐ横にあり、古くから交通の要衝だったことによるものと考えられる。