790 七十九番高照院 [Oct 2, 2019]


この図表はカシミール3Dにより作成しています。

郷照寺は高台にあるので、県道までゆるやかな下り坂である。「うたんぐら」でお接待していただいたので、足取りも軽やかである。

時刻はもう11時、そろそろお昼である。高照院まで約6km、1時間半の道のりがあり、その前に休憩をとった方がよさそうだ。ちょうど県道に出たところにローソンがあったので、サンドイッチと飲み物を買う。

ところが、ローソンを出たところで進行方向を間違えて、来た方向に戻ってしまう。しばらく進んで「郷照寺↑」の案内があったので気がついた。このあたり、海沿いを歩いているのだが海は見えないし、台風接近で太陽が見えないことも原因になっただろうが、情けないことである。回れ右して引き返す。

休憩適地は郷照寺から1.5kmほどの宇多津・蛭田池公園へんろ小屋だが、道間違いで倍歩いてしまった。公園の一角に屋根付きの休憩スペースがあり、すぐ横の集会所裏にへんろ用トイレがある。リュックを下ろし、先ほど買ったサンドイッチでお昼にする。

ここで20~30分休んだのだが、私の他に誰も歩き遍路は通らなかった。3~4年前、室戸岬に向かう国道沿いで、休もうと思うとそのたびに先客がいたことを思い出した。歩き遍路する人は確実に減っているようである。

もっとも、経費面だけ考えれば無理のないことかもしれない。江戸時代には善根宿や通夜堂がありお接待も盛んだったので、宿泊費・食費はほとんどかからなかったという。ところが現在では、ほとんどの遍路小屋は宿泊禁止である。

もっとも私の場合、仮に遍路小屋が利用可能としても、洗濯はしたいしシャワーを浴びたい、虫が来るのは嫌だなどと言っているから無理である。お接待があるとはいっても3食ご接待という訳にもいかない。

洗濯機と風呂のある宿となると、6000~7000円はかかる。その他食費等の経費を含めて大体1日1万円、50日かかるとして50万円が必要である。いまどき50万円あれば、世界中どこへでも行けるだろう。(コロナがなければ)

加えて問題なのは、50日間の休みをどうやってとるかということである。私だって現役時には、1週間以上の休暇はとれなかった。首都圏からだと、歩けるのは一遠征で4~5日。そんな休みは年に1回取れるかどうかだろう。

そんなこんなで、お遍路歩きをしようという人はどんどん減っている。バス遍路で八十八回るよりインドで聖地巡礼した方が日数も経費も安く済むのであれば、インドに行った方が功徳と思う人が多くなるのも無理はない。

12時のチャイムがなり、再びリュックを背負って出発する。ほどなく、高速道が直角に県道を横切る。高速道の下にも立派な公園があり、こちらで休むこともできたようである。

この高速道は本四連絡橋を越えて岡山に向かう。建設前は、児島・坂出ルートといった。つい先日、もと本四連絡船であった宇野・高松のフェリーが廃止されたが、橋が架かる前は四国まで船で渡らなければならなかった。

その頃私は銀行にいて、東京湾横断道ができたらどうなるとか、本四連絡橋ができたらどうなるとか調べるのが仕事だった。できて数十年経ってみると、便利にはなったものの根本的に何かが変わったということはない。結局は経済力のある方にメリットは吸い取られて、四国も房総半島も地盤沈下し続けている。

坂出も、連絡橋ができるまでは四国有数の工業地帯であったはずだが、連絡橋ができてにぎやかになったという話は聞かない。連絡橋の下にある島々にしたところで、観光需要があったのは一時のことでその後は閑散としている。

高速下を抜けてどの道だろうと案内を探していると、通りすがりの人が「この道をまっすぐですよ」と教えてくれた。遍路白衣を着ていると、行先が明らかなのでこうやって道を教えていただくことがある。お礼を言って、車がすれ違えるくらいの幅のまっすぐな道を進んでいく。


宇多津・坂出間にへんろ小屋宇多津・蛭田池公園がある。すぐ横の集会所にへんろ用トイレも併設されていてありがたい。ここから坂出市内には、あまり休める場所はない。


本四連絡橋に向かう高速道を越えて坂出市街に至る道に入る。「この道をまっすぐですよ」と言われた細い道路だが、住宅街を抜けるとシャッター商店街が延々と続く。

 

住宅街をしばらく歩いた後、商店街となるけれども、ほとんどシャッターを下ろしている。この商店街は2~3km続いたのでかなりの規模だと思うのだが、いまとなっては寂しい風景である。

幹線道路ではないので車はほとんど通らないのだが、まっすぐな上にアーケードになっていることもあって、すごい閉塞感がある。しばらく歩いていたらひどく疲れてしまった。ちょうど石のベンチが置かれていたので休む。

5分ほど休んで出発。シャッター商店街はまだまだ続いたが、ようやく途切れ途切れとなり向こう側に景色が見えてきた。どうやら坂出の中心部は突破したようだ。太い道を2度ほど横断して山に向かう道に入る。

予讃線の線路沿いに続くこの道は結構分かりにくく、案内標識があまりない上に右に折れる分岐がいくつもある。メインルート自体が白線も引いてない細い道なので、どちらが高照院に続く道なのかはっきりしない。

がまんしながら登り坂を進んでいくと、池の脇に縁台を並べた売店の前に出た。名高い八十場(やそば)の水である。せっかくだから、と腰を下ろす。

この日は、うたんぐらで休み、蛭田池へんろ小屋で休み、坂出商店街で休み八十場の水で休みと、郷照寺から高照院までの7kmほどの間に4回も休んだ。やはり、この頃から調子がよくなかったらしい。

名物のところてん250円を縁台に座って食べる。すぐ横に八十場の水があるので、それだけで涼し気だ。ところてんはいくつかの種類があったけれど、オーソドックスに酢醤油をお願いする。それほど冷たくはなかったが、汗をかいた後だったのでおいしかった。

八十場の水は古くから霊水として知られており、崇徳上皇が崩御された際、京都から使者が到着するまでご遺体を霊水に浸して保存したと伝えられる。上皇は保元の乱で敗れて謀反の罪で流罪となっていたから、検死が必要だったのである。

八十場の水から高照院まで500mほど。手書きの地図が掲示されていたのでそのとおりに行ったが、かえって遠回りだったようだ。普通に登り方向に進んでいけば着く。

金華山天皇寺高照院(きんかざん・てんのうじ・こうしょういん)。明治の神仏分離までは崇徳天皇社が札所であり、別当寺の摩尼珠院が納経印を書いていた。

神仏分離で崇徳天皇のご神霊は京都の白峯神宮に移られ、摩尼珠院は廃寺となった。納経を引き継いでいた筆頭末寺の高照院が明治20年に摩尼珠院跡地に戻り、現在の姿となった。

「霊場記」では金花山妙成就寺、別名崇徳天皇と書かれている。妙が成就するという寺号は、真言宗というよりも法華経の色彩が強い。宇多津の道場寺(郷照寺)も坂出の崇徳天皇社も、讃岐の振興拠点として外すことのできない霊場だったようだ。

門前まで達すると、天皇寺と大きく書かれた石碑がたいへんよく目立つ。その隣に立っている、鳥居の左右に小さな鳥居を付けたような印象的な三輪鳥居がここのシンボルである。

もちろん、鳥居は神社のものでありお寺のものではない。鳥居の正面奥に位置するのはかつての崇徳天皇社、現在の白峯宮である。高照院は別当寺として、参道を左に入ったところにある。


坂出のシャッター商店街を延々と歩き、ようやく高照院への登り坂となる。この少し先に八十場の水の売店がある。


八十場の水の売店前。奥に見えるような縁台がいくつか置かれており、名物のところてんを250円で食べることができる。


「天皇寺」の石碑と、特徴ある三輪鳥居。お寺とお宮の間に境はあるが、山門のようなものはなく、この鳥居が高照院の入り口である。

 

崇徳天皇社がこの地に定められたのは、ここに八十場の水が湧出していたからである。このことは「道指南」にも「霊場記」にも書いてあるのだが、なぜ霊水が必要だったのかは書いてない。崇徳天皇は保元の乱の首謀者として流罪とされた身であり、中央の検死を受けるまでそのまま保存しておく必要があったからであった。

まず、三輪鳥居からまっすぐ奥にある白峯宮に二礼二拍手一礼でお参りする。参道がまっすぐ伸び、境内には例によって神馬がいるのだが、想像していたよりも大きくはない。(今治の八幡神社よりかなり小さい)

高照院には、参道の左に寺への入り口がある。仁王門のような大掛かりなものがないのは、三輪鳥居が山門の代わりなのだろう。白峯宮の参道くらいのスペースに、本堂・大師堂・庫裏や他の建物もあるので、すごくコンパクトだ。でも、もともと別当寺だからお宮より大きくする訳にはいかないかもしれない。

ご本尊は十一面観音。扉の奥にいらっしゃって見ることはできない。ここから八十七番長尾寺まで、十一面、千手、聖観音と形はそれぞれだが、ずっと観世音菩薩がご本尊のお寺が続く。

道指南などに書かれている「崇徳天皇」という呼び方は、現代の感覚からするとやや違和感がある。陵を指すのであれば崇徳天皇陵、お宮を指すのであれば崇徳天皇社と呼ぶべきと思うのだが、単に「崇徳天皇」である。これだけでは、人名(天皇名)を言っているのか場所を言っているのか分からない。

そして、崇徳天皇は譲位して上皇となっているので、平安以来数百年間にわたり「崇徳院」と呼ばれている。そもそも、天皇を「XX天皇」と呼ぶこと(漢風諡号)自体、一部の例外を除き平安時代以降江戸末期の光格天皇までなかった(例外は安徳天皇など)。

平安時代以降ほとんどの天皇は亡くなった後「院号」で呼ばれており、「XX天皇」で統一されるようになったのは明治以降である。一条院、鳥羽院はじめ、お住まいになった土地から院号が選ばれる例が多かった。

それこれ考えあわせると、「崇徳天皇」という固有名詞は中世の人々にとって特別の意味があり、それは説明するまでもない自明のことだったのであろう。ちなみに、明治維新の際、明治天皇は崇徳天皇のいらっしゃるこちら讃岐まで勅使を送り、「長年のお怒りを鎮めて京都に戻っていただく」ようお願いしている。

崇徳上皇(天皇)は、日本中世史の最重要人物の一人である。私はどちらかというと古代史の方に興味があるのだが、貴族政治から武家政治に変わる大きな要因として、崇徳上皇の呪いが当時の人々にとって大きな意味をもったことは間違いない。

崇徳上皇は「民をとって皇となし、皇をとって民となす」と天皇家を呪ったとされるが、そこまで恨むのはどうかという気もする。実は白河院の隠し子という噂の真偽はおくとして、上皇は保元の乱を起こして後白河上皇と対立し、軍事衝突しているのである。

上皇方の悪左府・藤原頼長は矢に当たって死に、源為義は斬首された。崇徳上皇が讃岐への流罪で済んだのは先々代の天皇だったからで、上皇の息子である重仁親王も出家させられた。本来なら首謀者はもっと重い刑になっておかしくない。

それを、写経したから都の寺に納めてほしいというのを断られて恨むというのは逆恨みに近い。そして、実際の崇徳上皇はそれほど執念深くなかったという説もある。

保元の乱の後、天災や火災、遷都騒ぎなどで世の中が乱れたので、数百年ぶりに死罪になった保元の乱の敗者達の怨霊によるものと噂され、一番の大物である崇徳上皇が怨霊の親玉にされてしまったのかもしれない。

もっとも、上皇のせいで貴族政治が武家政治となったというのも貴族社会の被害妄想である。鎌倉以降明治までずっと幕府が治めていればともかく、鎌倉幕府を滅ぼしたのは後醍醐天皇である。

その後醍醐政治(建武の新政)がひどかったからその後500年間天皇の出番がなかった訳で、武家政治が続いた理由は天皇と藤原一族に政治能力がなかったからである。

この日の経過
郷照寺 10:45 → [2.7km]
11:30 蛭田池公園へんろ小屋 12:00 → [4.7km]
13:20 八十場の水 13:30 → [0.5km]
13:45 高照院 14:10 →

[Jun 20, 2020]


三輪鳥居からまっすぐ奥が白峯宮、崇徳天皇社である。


高照院へは白峯宮の左手に入る。ご本尊は十一面観音。


高照院大師堂。もともと別当寺なので、白峯宮よりずいぶんコンパクトにまとまっている。