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年金生活編

064 男のやすらぎとは何か 現時点の回答 [Jun 24, 2021]

柳沢きみおの「俺はオレの唄がある」のテーマは、男のやすらぎとは何かということである。最近、時々そんなことを考える。

酒や女、家庭はやすらぎにならない、それでは何が男のやすらぎなのか。教えてくれるはずだった二人の登場人物は相次いで死んでしまう。主人公はそれは「友」ではないだろうかと思い当たる(それが正解かどうかは最後まで分からない)。

自分自身の六十余年のことをつらつら思うに、友といえる付き合いをした人は数えるほどしかいない。ごく最近で10年以上前、一緒にカシノやポーカーで付き合った人達である。いまではみんな疎遠になってしまった。

リタイアしてからは、普段、奥さん以外と話すことはほとんどない。子供とだって年に数回である。必要があって店の人と話したり、山の途中で道を聞いたりすることはあるけれども、ごくまれである。

「やすらぎ」という言葉本来の意味は平穏とか平安ということであり、柳沢きみおのいう「やすらぎ」とはちょっと違うような気がしている。彼が使っている「やすらぎ」のニュアンスは、私の使う言葉では「慰め」のニュアンスに近い。

世の中思うに任せないことが多く(というかほとんどであり)、それが頭の中を占めると気持ちが沈んでどうしようもない。だから、気持ちを軽くする、高めるものが何か必要になる。彼のいうところの「やすらぎ」とは、そういう意味だと思っている。

「女」と同様に男のやすらぎの候補となるのは「家庭」ということになるのだろうが、彼はこれにも否定的である。家庭は仕事よりつまらない、と登場人物に言わせているくらいである。

最近「やすらぎ」は、霊園とか高齢者施設のネーミングにたいへんよく使われるから、心電図が平らなまま動かなくなったようなイメージである。あえて個人的に超訳すると、「心をおだやかにさせるもの・こと」「ストレスがない状態」ということになりそうだ。

柳沢きみおのいう「友達」も「女」も、もっと言えば仕事や家庭や酒まで含めて、心をおだやかにさせるよりは波立たせるものであり、ストレスを増やすものである。だからダメだというのではなく、そうしたものが慰めなり生きがいになるにしても「やすらぎ」にはならないだろう。

そもそも、友達も女性も家族も自分以外の他者ということに違いはなく、性別が違うだけで「やすらぎ」になる・ならないというのは首をひねるところである。

(書いていて思ったのだが、最近「首をひねる」は、文字通り首をねん挫するという意味で使われるらしい。「首をひねって痛くて仕方ない」みたいな。

まだしも家族の方が利害関係が共通する部分が多いけれども、それでも利害が相反する部分も少なくない。まして家族以外では共通する部分の方が少ない。いずれにしても、他者に依存するというのはリスクが大きいように思われる。

だとすると、「男のやすらぎ」とは何なのだろう。話が長くなったのでこれについてはまた。

柳沢きみお「俺にはオレの唄がある」、男のやすらぎとは何かがテーマになっている。

男のやすらぎについて、六十数年生きてきて私なりの回答がある。今日はそのことについて書いてみたい。

自分がどういう場合にやすらかな心持ちになって、ストレスが少ない状態になるか考えてみたところ、これはと思い当たることがあった。「家庭」とか「仕事」とか「女性」とかすべて他者にかかわってくるが、そうではなく基本的に自分自身で完結することである。

一言で表すのは難しいが、あえていえば「規則正しい生活」ということになる。

毎日決まった時間に起きて、決まった時間に眠る。決まった時間にごはんを食べ、1日のスケジュールも決まったことを繰り返す。これが最もストレスが少ない。

そして、できればそこに宗教的な要素が入った方がいいように思う。宗教的とは、キリスト教とか仏教とかそういうことではなく、祈ること、何かに手を合わせるということだけで構わない。わが国古来の神道とは、本来そういうものだったのではないだろうか。

私自身の宗旨としては、八十八ヶ所回った真言宗ということになるが、いつも般若心経や光明真言を唱えてはいないし、あまりそれにとらわれる必要はない。神様に柏手を打つ、仏様に手を合わせるだけで、「やすらぎ」にかなり近づくように思う。

おそらく、禅寺の生活もこれにかなり近いのではないだろうか(怒られるかもしれない)。祈りとか、掃除とか料理、後片づけが規則正しく時間ごとに定められ、それを繰り返す。それは実は、心の平安、やすらぎへの最短ルートのような気がしている。

ユダヤ教・キリスト教系の宗教では「最後の審判」に向けて懺悔すること、祈ることが求められるが、仏教では「悟り」を開くことが最終目的である。そして、禅宗の巨人・道元は、毎日の生活そのものが修行であり、悟りへの道であると考えた。

だから禅宗寺院では、食事をはじめ身の回りのことすべてを自らで完結する(役割を回り持ちする)ことが当然であり、それ以外の時間はすべて修行(座禅)に費やされる。座禅する時は悟りに至る道のことしか考えないし、それ以外はすべてルーティンが定められている。余計なことを考える時間はない。

献立はほとんど決まっていて、月ごと季節ごとに決まった行事があり、1日、1週間、ひと月そして1年が無事終わったことを感謝する。そうやって繰り返す毎日が、道元禅師にとって悟りへの道だったのではないかと思っている。

もちろん、心の持ち方は人それぞれ。ストレスを少なく毎日を過ごせることでやすらぐ人もいれば、血沸き肉躍るエキサイティングな暮らしこそ生きがいである人もいるだろう。むしろ、何かに向かって自らを駆り立てたいと思う人が多数派かもしれない。

柳沢きみおはやすらぎは「友」だと考えた。そういう人もいるだろう。しかし私は、自分以外の他者のあり方で自分自身の心の平安が左右されるところに、「やすらぎ」とは遠いものを感じるのである。

道元だって、只管打坐で座禅以外すべて余計なことという立場だけれど、師僧は必要だと書いている。けれども、菩提達磨が面壁九年している間に、師匠だの弟子がいたとは考えにくいのである。

当り前のことだが他者は自分ではなく、他者が思うこと感じることは自分とは違う。利害関係もあり価値観も違う。「やすらぎ」があるとすれば、おそらく自分の中で完結しなければならないもののように思う。

[Jun 24, 2021]

男のやすらぎとは、規則正しい生活、そこに祈りの要素が加わるものではないかというのが現時点の私の回答。禅寺の生活が近いように思う。