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なんとなく思うこと

121 「これまでの努力」に引き摺られると [Sep 21, 2021]

この間TVを何気なく見ていたら、コロナで阿波踊りが中止になって高校の阿波踊り部で発表の機会がなくなり、これまでの努力が無になるので何とかできないかという内容のニュースがあった。

普通に考えれば、踊る方も「密」、見る方も「密」なイベントをこの時期に開催するのはどうかということだし、発表はあきらめて別な方法を考えるのが常識的だと思うけれど、オンラインとか身内で小規模にという選択肢はないようだ。

こういうニュースを見ると、大げさだけれどわが国は太平洋戦争の教訓を全く生かしていないのだなと改めて思う。

改めて言うまでもないことだが、当時の軍隊は「満州の英霊に申し訳ない」ので中国戦線を拡大する一方、「石油の一滴は血の一滴」で補給体制もないまま東南アジアに展開し、「為せば成る」でアメリカとも戦った。ただでさえ物資が不足しているのに、四方八方で戦ったのである。

本来、「いまどう行動するのが最も適切か」の判断に、「これまでどのように努力してきたか」という要素はあまり関係がない。というより、そこに引き摺られると判断を誤ることがしばしばある。

登山において、道迷い遭難の最大の原因は、引き返す決断ができないことである。せっかくここまで登ってきた(進んできた)のだから、それをムダにしたくないという未練が、抜き差しならない窮地へ一直線に進むのである。停滞したり撤退することにより、悲惨な山岳事故がどれだけ未然に防げたか分からない。

私のよく見ている将棋でも同様の現象がある。いまや、AIの能力は人間をはるかに超えているが、AIの判断は現局面を出発点として、以後の変化を能力の限り計算する。人間はどうしても、ここまで指し進んできた手順に引き摺られる。

だからAIは、直前に指した手と方針が180度違っても平気である。ところが人間は、「銀が泣いている」とか「歩の顔が立たない」とかこれまで指した手順に次の一手が影響される。計算能力とかメモリの問題もあるけれど、人間とAIの差はそこにもある。

自分のことについて振り返っても、私がいままで進退窮まるような窮地に追い込まれずに済んできたとしたら、「せっかくここまで努力(苦労)したのだから」という要素をあまり重視しなかったからだと思っている。

そうでなければ、10年以上勤めた最初の就職先も、20年以上勤めた最後の勤務先も、あっさり辞めることはできなかっただろう。その結果、身体かメンタルかに重大な影響が出た可能性はかなり大きかったはずである。

話は戻って、たかだか2年、最長でも3年の高校の部活の苦労など、それに引き摺られるほどの長い期間ではないし、いま何をすべきかすべきでないかの判断にそうした要素を加えるべきではない。

いつの間にかやることになってしまった高校野球も同じである。だったらプロ野球や大相撲もいいだろう、オリ・パラもいいだろうと進んだ結果が、今日の感染拡大につながっているのである。早めにロックダウンしたヨーロッパ諸国では、すでに規制緩和が議論されているというのに。

いま最重要の課題は、感染防止と自粛のあおりで厳しくなっている業種で働く人達の生活を、どうやって守るかということである。

部活の発表の場がなくなる高校生やプロスポーツ選手とは数にして2桁は違う人達が、影響を受けている。休業補償も所得補償もする気がないみたいだから、少なくとも感染拡大の終息が最優先という姿勢くらい見せていいだろうと思う。

[Sep 21, 2021]

「1年間の努力が無になる」ので阿波踊り部が活動を続けるというニュースを見た。これまでの努力に引き摺られて第二次大戦ではひどい目に遭ったはずだし、身近な事例で考えてもろくなことはない。