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千葉ニュータウンの四季

034 印西大師八十八ヶ所・初日 [Mar 28, 2022]

この図表はカシミール3Dにより作成しています。

もうすぐ節目の65歳を迎えるにあたって、平成最後の年と同じように何か記念になることをしようと思った。

しかしながら、一昨年からのコロナ騒動で県境を越えての遠出がしにくい。さらに、4月の年金支給日までたいへん資金繰りの厳しい状況である。それほどおカネはかけられない。

そんな中、思いついたことがあった。普段の散歩で近くのお寺さんやお宮さんをお参りするのだが、その際「印西大師△△番」とプレートが貼られている小ぶりのお堂をよく見かけるのである。

きっと、富士講や出羽三山と同様、四国八十八ヶ所まで行くのが難しいので、近場にミニチュア版を作ってお参りしたのだと思っていた。お四国を回ったのに同じことを地元でしなくてもいいかもしれない。

しかし調べてみると、ちゃんと「四国遍路道指南」のように案内テキストがあって、地元の図書館に揃っている。のみならず、昔ほど盛んではないもののいまでも巡行は続けられていて、3つのお寺が輪番で結願寺となっているらしい。

そして、巡礼が行われるのが、毎年4月初めという。いまはコロナなので大規模にやっていないかもしれないが、この地区の田植えは確かにゴールデンウィーク前で、お大師様巡礼が終わると田植えの準備をしたというかつてのスケジュールがいまでも生きているのである。

印西市周辺ならそれほどおカネもかからないし、もちろん自宅から歩けるので小回りも効く。3年前に四国八十八ヶ所を結願して以来長い距離を歩いていないこともあり、誕生日記念にちょうどのイベントである。

思いついたのが3月初めで、2週間ほどルート確認や資料調べを行い、誕生日(4月8日)結願を目標にした。ちょうど本番の巡礼と同じ時期であり、一緒に回らないまでも、同時期に歩いて季節や風景を感じられたらいい。

2022年3月28日、わが印西大師八十八ヶ所の巡礼スタートである。午前8時に家を出発、一番泉倉寺(せんそうじ)に向かう。約2時間のコースであるが、前半は普段歩いているお散歩コースである。

つい1ヶ月半前に、スノーシューで歩いた亀成川に沿った道を進む。もちろん雪など残っていないし、川沿いの道には、タンポポやナズナがそこらじゅう咲いている。つくしも見えるし、コロニーを作っているのはヒメオドリコソウである。

1時間ちょっと歩くと、松山下公園が見えてくる。実はこの松山下公園、千葉ニューに越してくる前に何度か来ている。というのは、まだ二十世紀でトップリーグなどなかった当時、社会人ラグビーが好きで、その時に松山下公園にも来ているのである。

ワールドカップが誘致されるずっと前で、この松山下公園でもスタンドでなく芝生に座って見た。ずいぶん小さな運動場に有名選手がプレーしていたのであった。その手前で、水神様の角を左折する。この水神様は、終盤でお参りすることになるはずだ。

礼拝の仕方をどうしようか考えた。お四国だと般若心経を唱えるのだけれど、ちょっと大げさである。お数珠と経本は持つとしても、唱えるのは光明真言と南無大師遍照金剛にした。それと家族の健康と平和、無事65歳を迎えられることを改めて感謝する。

坂道を上がる。道案内は光堂と泉倉寺が一緒だが、光堂より先に、左に泉倉寺が見える。午前10時少し前に着いた。こちらには一番と五番二つの札所がある。印西大師八十八ヶ所は、こちらからスタートするのが通例である。

川沿いの道には春の花が咲き、なるほど八十八ヶ所巡行にふさわしい季節であることが感じられた。

泉倉寺は天台宗のこの地域の本山。巡行の最後になる光堂は、道路を隔てて反対側になる。

泉倉寺には一番、五番と2つの札所が置かれている。本堂に近い右が一番。

平成二十九年発行の印西歴史愛好会「印西大師八十八か所」に、明治四年の巡礼ルートが書かれている(今回の連載では「明治ルート」と呼ぶことにする)。

それによると、印西大師は四国のように一番、二番と順にお参りするのではなく、順路があって地域ごとにお参りした。番号は順路ではなく、四国のどのお寺のお砂を埋めたかによるらしい。

どの寺にどのお砂を埋めるかについては、同じ名前や似た名前、ご詠歌からの連想で選んだようだが、よく分からないところも多くある。(二十三番薬王寺や五十四番延命寺、六十三番吉祥寺などが同名。五十一番安養寺は石手寺の古名だし、安楽寺と安楽院、青龍寺と青竜堂などがよく似ている。)

そして、ゾロ目とか切りのいい番号は大きな寺にしたようである。例えば一番は地元印西の天台宗本山(中本山というらしい)である泉倉寺、真ん中の四十四番は発案者の南陽院である。南陽院以外の結願寺である平賀来福寺は六十六番、師戸広福寺は三十三番(その後七十七番を併合)となっている。

明治ルートには八十八の他に番外札所も載っていて、今回はその経路をたどって歩いてみた。とはいっても、この周辺は千葉ニュータウン計画をはじめとする開発によって様変わりしている場所も多く、見当がつかない場所・ルートも多い。

さて、ルート最初の泉倉寺の近くに来るとすぐ裏がニュータウン中心部なので、山の向こうに高層ビル群が見え隠れする。しかし、泉倉寺周辺は開発されておらず、江戸時代とほとんど変わらないように感じられる。

このあたりは、昔の小倉集落にある。いま千葉ニューの北にある小倉台は、もちろんここから名付けられた。山門を入ると、見事な本堂がある。左手に一番、五番の札所が並び、右手の建物は工事中で県文化財の地蔵菩薩坐像が納められていると案内板にあった。

札所の小堂には、まだ新しいお四国のご詠歌の額が掲げられている。この後いろいろ回ると、古くて読めなかったりなくなっているところも多い。一番は阿波霊山寺のご詠歌「霊山の釈迦のみまえにめぐり来て…」である。

一番、五番とお参りし、本堂や境内の諸仏にご挨拶して、泉倉寺を後にする。次の順路である円光院は来た道を戻ってすぐのはずだが、なかなか見つからない。道案内どおりに行くと、農家の庭先に出てしまうのだ。

さっそくの道迷いで出鼻をくじかれるが、参道はすぐ先の消防倉庫の脇の階段を上がる。消防倉庫や墓地、庚申塔、集会所が札所を探す目印になるのは、歩くうちに見当がつくようになった。

階段の上に、三番、十五番の札所がある。隣にある古びた建物が、かつては円光院と呼ばれていたものだろうか。

この建物はもはや寝泊まりすることは難しそうだが、正面にある和泉会館は新しい建物である。印西市はこうした地区集会所や青年館に立派なものが多いが、聞いた話では、これにも印西大師巡行が関係しているらしい。

というのは、私の年代が子供の頃(50~60年前)は巡行がまだ盛んに行われていて、年寄りは泊りがけでお参りしていたそうである。その際、知り合いの家に泊まることがほとんどであったが、お堂や集会所、青年館に泊まることもあったらしい。

当時、巡行の季節ともなるとお接待の準備はたいへんにぎやかで、大きな家では知り合いも泊めるし、お堂などに泊まる人に布団や食事、酒を用意したということである。そういう経緯で、お大師様のコースを回ると会館や青年館がいまでも多いのかもしれない。

円光院の登り口は消防倉庫脇の階段。隣の農家に入るスロープと間違えて、さっそく右往左往する。

登ると左手に、三番、十五番の小堂と古い会所の建物がある。

階段正面が和泉会館。印西市は地域の集会所や青年館がどこも立派だが、かつてお大師様巡行が盛んな当時、宿舎に使ったことも多かったらしい。

明治ルートでは、泉倉寺からスタートして和泉、鹿黒、泉新田と巡礼するのだが、今回のコースは、少し順序を変えて和泉、泉新田、鹿黒と回ることにした。

その理由は2つあって、一つは泉新田を先に回る方が距離が近いからである。いま現在の大師巡礼でもその順序で回っているし、その方が効率的である。(ニュータウンになる前は、現在のように道路が縦横に走っていなかったのかもしれない)

もう一つは、明治ルートでは後半に回ることになっている七十九番・草深(そうふけ)天王堂が、泉新田のすぐ近くにあるからである。

七十九番は明治時代には天王堂、現在は別の場所(丸山観音堂)に遷っているが、番外でも天王堂を回ることに変わりはない。そして、明治ルートだと、はるばる旧印旛村の奥から天王堂に来る。例えてみれば、時計の針で7時からいったん1時に戻り、再び8時に戻るようなコースだから、たいへん遠回りになる。

泉新田は名前のように和泉集落の住民が江戸時代に開発した新田である。このあたりは幕府の牧場だったが、湿地帯であまり使われていなかったのと、村から要望があったことで開発を許したという。

和泉円光院の前の道をまっすぐ進むと、ニュータウン大塚地区に出る。ここには、住宅地の他に情報企業の高層ビルが並ぶ。スーパーのビッグハウスがあって、近在でもいちばん安い店の一つである。そこから幹線道路を横切ると泉新田である。

場所的には、千葉ニューで最もにぎわう施設のひとつコストコのすぐ近くになる。コストコから道の狭い方を抜けようとすると、このあたりに出る。すれ違い困難な田舎道であるが、最近は抜け道にしようとする車も多くなった。

まず泉新田の番外札所を探す。通り沿いにそれらしきお堂が二つあって、一つは共同墓地と庚申塔の横、もう一つは八幡神社の隣にある。おそらく前者が真常寺、後者が不動堂であろう。両方とも、手を合わせてお参りする。

県道に出た場所の住居表示がすでに草深(そうふけ)である。天王堂は国道464号沿いにあり、距離的にも500mほどでたいへん近い。そういうことも勘案して、鹿黒より先に、泉新田の番外札所と天王堂を回るコースとしたのである。

このあたりの小字名は「天王前」といって、バス停名にもなっている。つい先日までここに大きなパチンコ店が営業していたが、現在は取り壊されて更地になっている。津田沼方面から木下に抜ける道はニュータウン開発によって複数できたけれども、もともとここが唯一の道で、バス通りでもあった。

さて、地元史の本を読んでいると、天王前とは八坂神社ではなく、かつてここにあった天王山福源禅寺嶺雲院によると書いてあるものがある(松本隆志著「下総地方紙の発掘」)。これには疑問があるので、反論しておく。

その福源禅寺は、もともと旗本の建てた寺で、宗旨は黄檗宗とのことである。旗本も江戸幕府なら、黄檗宗が入ってきたのも江戸時代である。享保年間に成立したとされる印西大師からそれほど前の話ではない。

そして、江戸時代半ばのわずかの間になくなった寺の名前が、地名になるほど残っているだろうか。八坂神社が廃寺後に新しくできたとすれば、五十年か百年で地名になるとは考えにくい。

それよりも、もともと由緒ある八坂神社が古くからあって、その場所に新しくできたお寺が山号を付けるにあたり、地名から採用したと考える方がずっと自然である。もともとそういう地名でなかったとすれば、「天王山」などという山号を付けるだろうか。

ここがもともとの七十九番に違いないのは、平成に入ってからのご詠歌の額が掲げられていることにも現れている。四国の七十九番は崇徳天皇社、ご詠歌は「…天王さえもさすらえぞある」である。

天王とは、お四国では崇徳天皇、印西大師は牛頭天王である。牛頭天王は、八坂神社の祭神のおひと方である。八坂神社と通りを隔てて草上コミュニケーションセンターの建物があり、そこに旧七十九番の小さなお堂がある。

数珠と経本を用意し、光明真言を唱える。桜の花が満開である。きっと、花の季節であることも考えて、お大師様巡行をこの時期にセッティングしたのだろう。

泉新田には真常寺、不動堂の2つの番外札所があり、今日でもお堂がきちんと管理されている。庚申塔・二十三夜塔が林立する方のお堂が、墓地もあることからかつての真常寺と思われる。

泉新田から県道を500mほど南下すると、もともとの七十九番天王堂がある。桜の後ろが札所で、右手の建物が草上コミュニケーションセンター、道路を挟んで後方が八坂神社。

天王前はこのあたりの小字名で、バス停の名前にもなっているし、1/25000図にも載っている。津田沼駅・木下駅間の路線バスは、昭和三十年代にはすでに走っていた。

天王前からバス通りを北上する。木下駅周辺にお昼までに着くだろうと見込んでいたのだけれど、時刻はもうすでに正午近い。しょっぱなから、予定より遅れてしまっている。464号沿いのセブンイレブンでアイスクリームを買って栄養補給する。

高花交差点から木下に至る経路は、昔はバス通り1本しかなかったが、ニュータウン建設が本格化してどんどん増えてしまい、もはやどこがどうつながっているか分からない。最近できたスタバと温泉施設前を通って北へ進む。

しばらく歩くと、ようやく工業団地から出て、昔の景色に近づく。まるでサバゲーのような外見のパチンコ店は、いまも営業している。このパチンコ店を左に折れると鹿黒集落、四番札所西光寺がある。

西光寺という立派な名前が付いているからかつては本堂があったのだろうが、いまでは小さなお堂が残るのみである。道路を挟んで集会所、ここには古い記念碑がいくつか残っている。もう一方の道路を挟んで消防倉庫、またもやよく似た立地条件である。

周囲に畑がまだ残っているが、すぐ近くに工場の大きな建物が見えているし、バス通りも近い。ニュータウン区域ではなく市街化調整区域のはずだが、新築の住宅地も近くにある。雰囲気も田舎というより街中である。

数珠と経本を取り出し、光明真言を唱える。お堂はきれいにしてある。おそらく、4月始めの定期巡礼に備えたものであろう。そして、真新しいご詠歌の額が掲げられていた。四番は黒谷寺、ご詠歌は「…ただ黒谷に墨染めの袖」である。

バス通りに戻り、並行して走る田舎道に出る。ここは牧の原駅前のショッピングセンターへの抜け道になっていて交通量が多く、この日も何台か飛ばしてきた。水田に下る少し前に、古新田青年館がある。ここに三十一番札所弥陀堂がある。

古新田という地名は、新田の中でも古くから開けた土地という意味と思うが、実際に水田まで近い。この近くには火皇子神社があり、享保年間に正一位の神格を許されたという。

享保といえば八代将軍吉宗の治世。その時代に高い格付けを得たのだから、それより古くからあったことになる。江戸時代初めから開けた地域だとすると、田沼時代前後の印旛沼新田開発よりかなり早い。

こちらの札所の前にやはり集会所があり、庚申塔などの石塔が数多く並んでいる。やはり、古くから開けていた地域ということもあるのだろうか。

一方、ご詠歌の額もあるのだが、墨が薄くなって読めないだけでなく、板自体も半ば崩れ落ちてしまっている。三十一番だから五台山、「南無文殊、三世の仏の母と聞く…」と書かれていたのであろうか。

古新田弥陀堂から水田へ下り、そこから登り返すと五十九番星光院がある。この場所は、なかなか分からなかった。印西中学校前で、庚申塔が2基立っている道を入るのだが、分からなくてぐるっと回ってしまった。

見つけた時は、民家と畑の中に札所のお堂だけがいきなり建っているように見えたのだけれど、よく探すと道路の反対側にお寺の敷地があり、古い石碑が並んでいる。お堂の周りにも、いろいろな客神や供養塔の碑が置かれている。

巡礼が近いからだろうか、こちらの札所にもお花が一輪供えられていた。周囲が開けているので日当たりがよく、うっそうとした感じはない。ご詠歌の額は見当たらなかったが、格子の目が粗いのでお大師様のお顔がよく見えた。

四番西光寺は鹿黒集会所の隣にある。集会所の敷地内に古い碑が建っているし、後ろは消防団の施設。印西札所ではよくある立地条件である。

古新田青年館前にある三十一番札所。周囲には多くの庚申塔がありお墓もあるから、青年館はもともと阿弥陀堂だったのかもしれない。

五十九番札所星光院は、民家と畑の中にあり、最初探した時よく分からなかった。道路を挟んでお寺の敷地があり、古い石碑が並ぶ。印西中学校前の庚申塔が2つある角を入る。

星光院から西に向かう。このあたりが大森集落で、江戸時代には淀藩の陣屋があった。札所のある長楽寺の他、初詣で来たことのある古い神社や古墳などがある。

いま印西市に含まれる地域は、江戸時代には天領(幕府領)、佐倉藩、淀藩、浜松藩などの支配が入り組んでいた土地である。とはいえ、浜松藩は天保時代に水野忠邦が天領から移管したもので比較的新しい。

これに対して淀藩支配の歴史はかなり古く、江戸中期の享保時代に佐倉藩稲葉家が淀藩に国替えとなった際、引き続き残されたものである。おそらく、石高調整によるものだろう。だから、基本的に天領と佐倉藩ということになる。

そして、大森から利根川に向かって坂を下りると木下(きおろし)。上流から運んだ木材を下ろした港であることから名付けられたが、その名の通り水運・商業で栄えた地域である。

現在は印西市役所が大森にあるので、木下と大森は一体化してしまっているが、かつての木下は商業地域で、大森は川から離れた農村、明治初めには別の村であった。この後訪れる稲荷神社のある竹袋も、また別の村である。

明治ルートには、長楽寺の前に番外札所として前畑堂の名前がある。長楽寺に向かう途中、まさに畑を前にしたお堂があるので、おそらくここが前畑堂であろう。

前畑堂のすぐ先に鳥見神社、左に入ると長楽寺である。境内はかなり広い。折柄、桜が満開である。こちらには八番、四十三番の二つの札所がある。八番は本堂のすぐ横、四十三番は少し登った長寿観世音堂のそばにある。

こちらの観世音堂は新しいものであるが、以前来た時に、古い建物は不審火で焼けたと説明版に書いてあったように思う。かつては国宝だったらしい。探したけどなかったので、記憶違いかもしれない。

ご住職のご自宅も脇にあり、当地随一のお寺であったことが今でもうかがわれる。開創は慈覚大師円仁と伝えられるが、戦国時代に全山焼失、江戸時代になって再建された。

長楽寺から坂を下りて行くと中ノ口堂。こちらも公民館と共同墓地がセットになった札所によくある立地である。番外札所であるが、大師堂と記念碑が整然と並んでいる。

明治ルートは中ノ口堂から木下駅を過ぎて山根不動尊に向かうのだが、現在は札所となっている浅間神社と厳島神社をお参りする。浅間神社は、初詣でなどで何度もお参りしている。

浅間神社は中ノ口堂からすぐ、国道沿いの高台にあって階段を百段くらい登らなければならない。現在は八十九番とされているが、どういう経緯で入ったのかはよく分からない。おそらく、高野山にあたると考えられたのだろう。

丘の上には、てっぺんに浅間神社、一段下がって札所と稲荷神社が祀られている。社務所のような建物があるのは、時期になるとお札とかを売るのかもしれない。

国道側の斜面をコンクリートで補強してある。浅間神社はもともと裾長の高台になっていて、道路拡張の際に山体の半分を削ったものという。とはいえ、利根川方向の眺めはいまだに雄大である。

大森長楽寺はこのあたりの大きなお寺。八番、四十三番の2つの札所が境内にある。こちらは八番。

番外札所・中ノ口堂は、現在は共同墓地と公民館になっている。記念碑隣の小堂。

八十九番浅間神社から、利根川方向の雄大な眺め。

七十九番浅間神社もそうだが、次の三十九番厳島神社も明治ルートには入っていない。

当時の三十九番は旧印旛村平賀の離れ島で、そちらは現在でもお堂が残されている。厳島神社に置かれている大師像の台座に、「昭和三年四月平賀村花島より移す」と記されているという。(印西歴史愛好会「印西大師八十八ヶ所」)

その理由は明らかでないとされているが、想像はつく。昭和初めにはまだ印旛沼捷水路はできておらず、平賀の印旛沼沿いは水害がしばしば発生した。おそらく洪水によって、被害が発生したのではなかっただろうか。

平賀の旧札所自体が水没することは考えにくい(かなり標高が高い)が、周囲が水浸しになり全くの離れ小島になってしまったら、歩いて巡拝することができない。何しろ印旛沼周辺は、治水工事が完了するまで2階まで浸水するような被害が数年に1度起きていたのである。

加えて、当時の印西大師はたいへん盛んで、集落のバックアップが不可欠であった。近くに集落がなく、付近が水没してお接待もできないとなると、別の場所に、ということになったのかもしれない。

厳島神社は水害の多かったこの周辺では多く祀られている神社で、こちらの厳島神社は近在では最も大きな社殿を持つ。もちろん明治以前から存在している。

本殿、続いて札所にご挨拶する。お堂は2つあって、右が印西大師三十八番、瓦に焼いた銘板が掲げられている。左も四国霊場何番と書いてあるのだが、墨が消えてしまって読むことができない。

このあたりの小字名を六軒というが、手賀沼から流れる手賀川と利根川が合流する地点で、舟運の拠点として栄えた。いまも、当時の倉庫などの跡が残っている。堤防工事が進んでいまは当時の面影はなく、一番目立つのは明治・大正時代の横綱・鳳の記念碑である。

鳳(おおとり)は当地の滝田家の出身で、現在も県議会議員を出している一族である。俳優の滝田栄氏も親戚で、記念碑の題字も滝田栄氏の揮毫である。時期的には、鳳が活躍した少し後に札所が遷されたことになる。

ここに着いたのが午後2時過ぎ。予定していた昼食をようやくとることができた。ピーナッツクリームのサンドイッチとホットレモン、この日はじめて、座って休むことができた。それにしても、大幅な予定遅れである。2時間は遅れているだろう。

厳島神社から木下市街の中心部を移動する。左手には数メートル上の位置にスーパー堤防があり、そこに県道が通っている。堤防よりかなり低い位置に、公民館がある。

15分ほど歩いて七番山根不動尊跡へ。位置的には、木下小学校から成田線の線路をはさんで反対側になる。この山根不動尊、江戸時代からたいへん栄えたご不動様だが、平成二十一年に不審火により全焼してしまった。(WEB「印西大師」に当時の写真が残っている)

貴重な仏像や仏画、奉納された古い絵馬などの文化財がすべて失われ、現在は焼け残った灯篭や石碑、離れた場所にあった印西大師の札所が残るのみである。札所は横長の小堂で、中に3体のお大師様がいらっしゃる。七番だから十楽寺、お遍路で泊まったところだ。

次の三十番上町観音堂は、山根不動尊から竹袋稲荷神社に向かう途中にある。もともとこの観音堂は、江戸道、佐倉道、木下河岸の分岐点に作られたものだから、便利なところにあるのも道理なのである。

ところが、せっかくの境内が違法駐車で満杯で、ゆっくりお参りすることができなかった。こちらも境内に大きな観音堂と小堂が3つある。厳島神社もそうだし山根不動尊もお大師様が3体いらっしゃったから、印西大師とは別の四国新霊場系列なのかもしれない。

昭和初めに、三十九番札所は木下六軒にある厳島神社に遷された。厳島公園には、当地出身の横綱・鳳の記念碑がたいへん目立つ。

七番札所は平成二十一年に焼失した山根不動尊の前にある。横に長いが、中には3体のお大師様がいらっしゃる。

三十番は上町観音堂前。ここは、かつて江戸道、佐倉道、木下河岸の分岐点だった。(違法駐車がお堂に接近して止まっていたので、別の日に撮影)

三十番上町観音堂からかつて印旛高校があった高台を左に見て、竹袋交差点から坂道を登ると竹袋稲荷神社である。ここには、初詣によく訪れていて、宮司さんにお話を伺ったことがある。(こちら)

門前に、六十四番神宮寺の札所がある。四国札所では四十一番が稲荷であるが、印西四十一番はお隣の三宝院となっている。四国六十四番も前神寺なので、ご詠歌でも「前は神うしろは仏」と詠われている点が共通する。

稲荷神社にお参りした後、駐車場と拝殿の間にある神宮寺札所にお参りする。ここには、札所のお堂の隣に客神の神社が祀られている。桜の花が満開である。

次は、県道向かいにある四十一番三宝院である。たいへん交通量の多い道路で、カーブが連続するにもかかわらずみんな飛ばしてくる。しかも、大型車通行止の標識があるにもかかわらず、トラックやトレーラーが黄色線を踏んで突っ込んでくるので大変危ない。

何とか横断して静かな境内に入る。説明板が掲げられていて、この三宝院は室町時代の開創で、竹袋地区の菩提寺、稲荷神社の別当寺として栄えたと書かれている。宗旨は天台宗である。

県道から入って意外に広い境内の一角、山門のすぐ脇に、四十一番札所が置かれている。天台宗のお寺だから大師堂を目立つところに置く訳にはいかないのかもしれないが、なんだか寂しげである。

それでも、巡拝の季節だからなのか、小さなお花が供えられているのはかわいらしい。隣に建つ石碑には「坂巻武之碑」とある。どういう謂れがあるのだろうか。坂巻は、木下から対岸の茨城県にかけて多い苗字である。

さて、時刻はすでに3時半を過ぎている。ここからだと家に1時間で帰れるが、予定している札所はまだ4つ残っている。もう日は陰ってきた。全部回るのは無理だ。

頭の中で、ここから回れる場所と翌日に回すスケジュールを計算する。一番近いのは、番外札所の五ノ神堂。ここから鳴沢のセブンイレブンまで歩いて奥さんに迎えに来てもらえば、あと1時間で歩けそうだ。残り3つは翌日にするしかない。

五ノ神堂は竹袋から木下東へ向かう道路の脇にあり、近くに県水道局の中継基地がある。家の近所にある浄水場まで、利根川から水を引いているのだ。聞いた話によると、軽トラが走れるほど太い管を通しているらしい。

五ノ神堂(五ノ神社)の発祥は明らかではないが、信仰の形態からしてこの地域に多い鳥見神社、宗像神社より古いかもしれない。当地の神々の中では、旧本埜村の笠神(瘡神)と並んで古いのではないだろうか。

戸の隙間から中を覗くと、石造りの「おちんちん」が何本も奉納されている。子孫繁栄・五穀豊穣を祈る信仰で、起源は縄文時代にさかのぼるともいわれる。拝殿はトタン造りの簡素なものである。

五ノ神堂の番外札所は、神社から50mほど離れた共同墓地の一角、大木の根元に置かれている。この日打ち止めのお参りであるので、お数珠を出して念入りに手を合わせる。

さて、ここから鳴沢のセブンイレブンまでは、アップダウンの激しい厳しい道である。何とか奥さんと約束した4時半に間に合わせようと、懸命に歩いた。

この日歩いた距離はGPSによると27.0km、歩数は44,710歩。初日から、四国お遍路並みのハードな1日となったのでした。

この日の経過
自宅7:55 →(7.8km) 9:55 一番泉倉寺 10:10 → (1.0km)  10:20 十五番円光院 10:30 → (1.7km) 11:00 番外新常寺・不動堂  11:10→ (1.3km) 11:20 旧七十九番天王堂 11:30 → (2.7km) 12:05 四番鹿黒西光寺 12:10 → (2.0km) 12:45 三十一番古新田弥陀堂12:50 → (0.7km) 13:00 五十九番大森星光院 13:05→  (1.0km) 13:20 八番長楽寺13:35 →(1.2km) 13:50 八十九番浅間神社 13:55→ (0.8km) 14:10三十八番厳島神社 (昼食休憩)14:30→ (1.5km)14:50 七番山根不動尊14:55 → (0.5km)  15:00 三十番上町観音堂15:05 →(1.4km) 15:25六十四番竹袋神宮寺・四十一番三宝院 15:40 → (1.7km) 16:05 番外五ノ神堂 16:10 → (1.9km) 16:30 鳴沢セブンイレブン
[GPS測定距離 27.0km]

六十四番神宮寺の札所は竹袋稲荷神社の駐車場寄りにある。ここも桜が満開。

四十一番三宝院は稲荷神社から道路を隔てた反対側。もともと稲荷神社の別当寺で稲荷山神宮寺三宝院と称したというから、四十一番は納得である。

五ノ神堂は稲荷神社・三宝院から2kmほど歩く。五ノ神社は古くから信仰を集めたようで、小字名も五ノ神という。小堂は神社から離れた墓地の中にある。

参考資料
印西歴史愛好会編「印西大師八十八か所 札所めぐりで郷土の歴史を楽しむ」
北総ふるさと文庫「印西大師八十八か所(印西・白井編)」「同(印旛・本埜編)」
五十嵐行男「印西風土記」
五十嵐行男「印西地方史よもやま話」
本埜村史編纂委員会「本埜の歴史」
ままちゃり倶楽部印西支部「印西大師」(WEB)