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千葉ニュータウンの四季

035 印西大師八十八ヶ所・2日目 [Mar 29, 2022]

この図表はカシミール3Dにより作成しています。

印西大師巡拝初日は、予定よりも約2時間遅れて、4ヶ所のお参りを翌日に持ち越してしまった。2日目も天気は上々、まず前日未達だった所をクリアしなければならない。

本来であれば、前日迎えに来てもらったセブンイレブンまで送ってもらいそこからスタートすべきであるが、そうすると余計に時間と距離がかかってしまう。Google Mapで計算した結果、一番よさそうだという修正ルートに落ち着いた。

それは、前日お参りする予定だったルートを家からセブンイレブンまで逆にたどり、そこから当日ルートに合流する計画である。2時間遅れをカバーできるか分からないが、帰りは家まで戻る予定なので、時間を見ながら途中で判断することにした。

7時50分、初日より10分早く家を出る。最初の目的地は番外札所の宗甫(そうほ)観音堂、ここは家からすぐ、いつものお散歩コースである。

このあたり、つい先日まで現役だった農家のおじいさんが亡くなり、梨園も縮小され畑も住宅地になってしまった。観音堂は宗甫青年館から少し印西総合病院寄りにある。森に囲まれた鬱蒼とした場所だったが、すぐ裏に新しい保育園ができて景色が変わった。

手を合わせてお参りする。ナンバー札所には入っていないけれども、明治ルートに記載されているように巡礼経路に入っていたのだろう。いまでは青年館もほとんど使っていないし、観音堂は傾きかけている。

観音堂や札所はかなり古いのだが、新しいのはご詠歌の扁額である。木版に彫ってあるので墨と違って消えないし、他の札所よりかなり新しく見えた。四国十六番観音寺「わすれずもみちびきたまえ観音寺…」のご詠歌であった。

宗甫から別所へは、前日泉倉寺に行く途中に通った亀成川を渡って対岸の高地に進む。この道は、大正時代の1/25000図にも載っている古い道だが、ニュータウン計画にかかっている地域なので新しく舗装し直され、道幅も広くなった。

左側は長いこと更地でフェンスで囲われていたが、ここ数年で工業団地が次々と整備されている。近い将来、倉庫などの施設が建つものと思われる。GoogleとかAmazonという噂も聞くが、実際どうなのか分からない。

二十番、七十番の置かれている別所地蔵堂は、家から歩いて1時間もかからない。よくお参りする仁王門をくぐって地蔵堂にお参りする。

小さなお堂は、向かって左側に2つ建っている。そのひとつに、七十番の札所がある。傍らに「南無大師遍照金剛」の石碑、小堂には、お墓によくある石の香炉と花立てが備え付けてある。

光明真言を唱え、手を合わせる。ここにはもう一つ二十番があるはずだが、どこにあるのだろう。地蔵堂の裏手にある共同墓地を探したが見当たらない。さて、どうしたものか。

改めてスマホの地図を確認すると、この地蔵堂の本堂は少し離れた場所にあって、そちらが明治ルートにも名前が載っている宝泉院であるらしい。うかつにも、そちらが本堂なのにいままで行ったことがなかった。

100mほど戻ると、そちらに本堂と二十番札所があった。改めてお参りする。四国二十番は鶴林寺、八十八ヶ所の中でも重要なお寺である。

荘厳な地蔵堂がいまでも残るように、こちら地蔵寺宝泉院も、古くは何ヶ所かの拠点を有する大寺だったという。印西大師の選定にあたっても、四国で大きなお寺のお砂は印西でも大きなお寺に納められているようだ。

宗甫(そうほ)観音堂と番外札所。林の中の鬱蒼とした場所だったが、裏に保育園が出来て景色が変わった。大師堂には十七番観音寺のご詠歌が掲げられている。

宗甫から別所地蔵堂へ向かう。この道は江戸時代からある古道だが、ニュータウン開発により拡幅された。左の空き地にはいずれ工業団地が建つ予定。

二十番別所地蔵堂は普段のお散歩コース。七十番札所は、100mほど離れた本堂にある。

地蔵堂から昨日迎えに来てもらった鳴沢セブンイレブンに出て、ここから平岡東大寺に向かう。前日予定していたルートである。

東大寺にお参りしたことはないが、お散歩コースである平岡斎場のすぐ近くで、歩いたことが何度もある。中は結構広くて、本堂と薬師堂、札所がある。札所は本堂の左手、横に長く、格子なしに2体のお大師様がいらっしゃる。

左に二十二番、右に二十八番のプレートが貼られている。四国二十二番は平等寺、二十八番は大日寺である。明治ルートでは二十二番は東大寺、二十八番は東大寺大日堂と記されており、当時いくつかの塔頭があったらしい。

境内の掲示板に、「東大寺と呼べるのは奈良とここだけ」みたいなことが書いてある。南都東大寺は華厳宗でここは天台宗、あちらは聖武天皇が総国分寺として建てたお寺だから違うような気もするが、信仰にどうこう言うことはない。いったん荒廃して、江戸時代に再建されたという。

お参りを終えると9時50分、出発から2時間経過。ここまでは前日の計画だったから、見込んだとおり約2時間の遅れということになる。東大寺から坂を下りて、低い場所に出る。ここは、江戸時代には将監川の流域だった。現在では、洪水の心配のない水田地帯となっている。

成田線に沿って小林駅近くまで移動する。次の三十七番馬場の堂は、小林鳥見神社の近くにある。毎年初詣にお参りする神社で、お散歩コースでもある。共同墓地とたくさんの石碑、隣には集会所と少年野球のグラウンドがある。

鳥見神社は「とみ」とも「とりみ」とも読むようだが、もともと古い地名の「とみがおか」から発生したもので、「とみ」が本来のようである。旧印西町・旧本埜村にたいへん多い。旧印旛村になると、宗像(むなかた)神社が多くなる。

四国三十七番は五社で、現在は窪川岩本寺だが江戸時代は高岡神社が札所であった。ご詠歌の額は見当たらないが、きれいに手入れされている小堂である。

鳥見神社の境内にもよく似た小堂が置かれているし、立地的にもほぼ一体といっていい。江戸時代には鳥見神社の中にあったが、神仏分離でわざわざ分けて作ったのかもしれない。だとすると、四国三十七番とよく似た札所ということになる。

馬場の堂から小林駅に向かって下りて行く途中に、八十一番光明寺がある。古いお墓が多いので、この地区の菩提寺だったのだろう。いまでは小林駅近辺に大型の墓地が開発され、いくつか寺も作られているが、大正時代の地図を見ると、ここと馬場の堂、次の西福寺くらいしか卍マークは見当たらない。

札所は、本堂近くではなく墓地の中にある。四国八十一番は白峯寺。崇徳上皇絡みでお四国では重要なお寺だが、ご詠歌の額は特に見当たらない。

光明寺の墓地から林の中の道を入ると、南弘防帰國稲荷神社がある。本殿と社務所があり、幟がたくさん立っている。由緒書きには、江戸時代の天海僧正の南光坊にちなんで名前を替えたと書かれている。なぜか字が違うし、「帰国」というのも不思議な名前だ。

明治ルートでは、光明寺の次に七十七番虚空蔵堂があった。そのあたりは、現在は小林の住宅街となっているので、開発されてなくなってしまったものと思われる。いま七十七番は、三十三番師戸広福寺が併せてお祀りしている。

住宅街の中に、中世に小林城のあった場所があり、いまもそう書かれた杭が残っている。城山公園という。経路や距離がぴったりなので、もしかすると城山公園として整備された周辺に虚空蔵堂があったのかもしれない。

平岡東大寺まで歩く。ここまでは前日の予定で、お参りしたのは10時、ちょうど2時間の遅れであった。本堂左の小堂が札所。

三十七番馬場の堂、平岡鳥見神社の近くで、隣に少年野球のグランドや集会所、共同墓地がある。後ろの畑には菜の花が満開。

八十一番光明寺。天台宗のお寺である。小林駅周辺には近年いくつかの霊園とともにお寺ができたが、大正時代の地図にはこちらと西福寺くらいしか卍マークは見当たらない。

四十八番西福寺は小林駅の安食寄り、砂田集落の中のくねくねとした道を曲がった先、階段を登った高台にある。階段横に車のためのスロープがあり、その奥は墓地である。本堂は新しく、本堂に向かい合わせに大師堂(札所)がある。

記念碑によると、本堂は平成に入ってから改修されたもので、墓地開発にあわせて行われたようだ。大師堂も、小さいながら近年になって改築されたもので、寄進者のお名前が記されている。

この西福寺は旧本埜村でたびたび出てくる小廻り大師の世話役(先達)のひとつであったが、この寺にはその記念碑は残っていない。とはいえ、同じ世話役の南陽院にもないし、もう一つの竜泉院に至っては寺自体がすでにない(石碑だけが残っている)。

四国四十八番は西林寺、名前が似ているといえなくもない。お昼には少し早かったけれど、階段下にある公園にベンチがあったので、座らせてもらってお昼にする。ピーナッツサンドとホットレモン、それと冷凍ハムカツを自然解凍してある。

この公園には猿田彦大神の大きなお堂があるが、西福寺から100mも離れていないので、四丁(約400m)離れていた旧七十七番虚空蔵堂と比定するのは難しそうだ。しかし、古い石碑があたかもブロック塀のように並んでいて、おもしろい造りである。

明治ルートで七十七番はここ砂田にある虚空蔵堂と明記されている。先週書いたように、距離的には城山公園がちょうどの場所にある。もしかすると、猿田彦公園の石碑は、宅地開発のためここに集められたのかもしれない

正午前に出発する。これから、この日のメインである旧本埜村の奥への巡拝である。ふだんのお散歩では、距離が長くなるのでなかなか進めない場所である。

まず、公園から水田に向かって進む。このあたりは旧本埜村と旧印西町の境界にあたり、本埜村では七区、印西町では小林新田と呼ばれていた。成田線の線路をくぐり、国道沿いまで歩くと小林新田の番外札所がある。

明治ルートで観音堂とされているのが、小林新田青年館の前にある札所である。左にがっちりした石造りの小堂があり、右は札所スタンダードの木製である。石造りが観音堂、木製が大師堂だろうか。

青年館から100mほど離れたコミュニティセンターの敷地内に、水神様のお社と東福寺札所がある。水神様の改築記念とともに、東福寺の再建記念の立派な石碑もある。あるいは、コミュニティセンター内にご本尊がいらっしゃるのかもしれない。

このあたり、小林新田と呼ばれるように、江戸時代半ば以降に新たに拓かれた土地である。印旛沼の干拓というと、老中田沼意次主導によるものが有名だが、それだけでなく、利根川の流路変更や印旛沼下流の整備が何度も試みられている。

次の八十四番密厳院は、将監新田にある。小林から将監まで、低地ではなく自然の堤防のような高くなった場所を歩くから、まったく新規に干拓した場所ではないように思える。すぐ近くに大瀧神社という神社があるが、ここも由緒がありそうだ。

密厳院は石段の上に本堂があり、左に3つの小堂が並んでいる。一番本堂寄りには「四郡二十番」と読める札が打ってある。中央が、見慣れた印西大師のプレート、右が一番大きく、どうやら成田山をお祀りしているようだ。ご詠歌の額は見当たらない。

密厳院の前の道路を挟んで反対側がコミュニティセンターで、消防倉庫も近くにある。かつての村落で、これらの施設はセットで揃えられていたのかもしれない。さて、ここからいよいよ新田地域の中心、江戸時代には印旛沼であった低地に入る。

四十八番西福寺。平成に入って庫裏を改築したという記念碑が建っている。こちらをお参りした後、近くの公園にベンチがあったのでお昼にする。

番外札所東福寺。水神社の隣にあり、横長の碑には「東福寺再建記念碑」とある。

八十四番将監密蔵院。大きな本堂の前に小ぶりのお堂が3つあり、真ん中が印西大師。右は四郡二十番とある。左は成田山のようだ。

将監から奥は、かつての浜松藩領である。浜松藩になったのは天保の改革・水野老中の時代で、それまでは天領(幕府領)だった。幕末近かったのと淀藩ほどの歴史がなかったのと、そもそも収穫が多くなかったので、浜松藩の治世をしのぶ旧跡は何もない。

明治ルートではこの新田地域の何ヶ所かの番外札所を巡拝するのだが、集落と札所名だけしか分からないので探すのに苦労すると思っていた。ところが、それほど迷うこともなかった。おそらく、江戸時代から道そのものはあまり変わっていないのだ。

基本的には、将監から甚兵衛沼まで、現在コミュニティバスが通っている道を進み、甚兵衛沼からは県道本埜線を辿る。旧村役場が近づいてきたら、北上して押付薬師堂を目指す。2時間ほどで1周できた。

方角的にも、さえぎるものは何もないので、低地の中ほどにある高齢者施設プレーゲ本埜と、閉校になった本埜第二小学校を目安にすれば間違いようがない。どこに札所があるのかだけが問題であった。

密厳院の次は白山堂、竜水院と続くが、名前から想像したとおり、白山堂は白山神社の横、竜水院は水神社の横にお堂があった。どちらもGoogle Mapに載っていて、コミュニティバスの通りに面している。

驚いたのは、この2つは番外札所なのにたくさんの石碑に囲まれていて、その中には小廻り大師の古い石碑があったことである。小廻りというと札所の中から選んでお参りするイメージだが、選ばれた中に番外が入っている。

お堂も立派で、竜水院の札所など2段にわたりお大師様が4体ずつ、計8体いらっしゃる。他の札所の大師堂と比べてもずっと多い。そして、周囲には共同墓地、集会所、消防倉庫が揃っていて、ここが村落共同体の中心であったことが窺われた。

甚兵衛沼は旧本埜村ではもっとも奥まった位置にあり、ここで明治ルートは方向を西に変える。明治以前にはここより先は印旛沼で、明治時代に入って本埜村では有名な吉植農場が開墾した場所である。

弥陀堂という番外札所があるはずなので探した。候補となりそうなのは稲荷神社と集会所だが、500mほど離れた稲荷神社にはお堂がない。引き返して県道本埜線沿いに集会所に行くとお堂があった。おそらくここが弥陀堂である。

明治ルートはさらに観音堂、宮の前と番外札所が続くけれど、観音堂はお堂と付属の建物が残っているだけ、宮の前は氷川神社の周辺と見当はついたものの、お堂は残っておらず氷川神社も傾いてしまっている。

ただ、ここまで来るともう旧本埜村役場が見えている。北に方向を変えて進むと、やがて水田の中に押付薬師堂、その向こうに南陽院のある林が見えてきた。この日も長い距離を歩いてきたが、ようやく普段のお散歩コースに近づいてほっとした。

八十三番押付薬師堂は、水田の中の一区画だけ、共同墓地と薬師堂の建物が独立している。ひときわ大きな木が遠くからも見えて、その根元に札所が置かれている。ご詠歌の額は見えない。

薬師堂の建物はトタン屋根が錆びてしまっているが、掃除用具などが置いてあるから、いまでも管理はされているようだ。石碑には古いものが多いがほとんどが墓石のようで、新田地区にあったような小廻り大師の記念碑はなかったようだ。

旧本埜村の番外札所を明治ルートに沿って歩く。酒直卜杭竜水院は名前のとおり水神社(後方)に隣接し、お大師様が8体いらっしゃる立派なお堂。

ずっと本埜村の最奥部を歩いてきて、押付薬師堂が見えた時にはほっとした。右が押付薬師堂、後方の高くなっている森の中腹に南陽院がある。

八十三番押付薬師堂。水田の中、墓地と一体となっている。札所は大木の下にある小祠。

押付薬師堂と南陽院は直線距離にして300mほどしか離れていない。ところが、明治ルートではその間に2ヶ所の札所、3ヶ所の番外札所を巡拝して、距離合計は二十丁(約2km)近くに達している。当時の水路や堤防がいまとは違ったのかもしれない。

今回は、押付薬師堂から南陽院まで最短距離を歩く。現在、水路にかかっている橋を渡るとすぐである。

南陽院は江戸時代はじめにはすでにこの場所にあったが、現在もご住職の家がすぐそばに建っている。本埜村はニュータウンで様変わりしたが、このあたりは古くからの姿がそのまま残っている。

江戸時代から変わったことといえば、ニュータウン計画よりも、昭和に入って行われた印旛沼治水事業と、ウルグアイラウンドの農水省事業の影響が大きい。それらにより、水路がまっすぐに整備され、水田も大規模に区画整理された。

それ以前は、洪水と干ばつのどちらかが襲うという、あまり恵まれていない地域であった。だから、江戸時代の南陽院のご住職が、何とか農民を救う手立てはないかと悩んで、お大師様を思いついたのである。

ただ、当時は学校がないので、お坊さんといえども日本史や宗教を体系立てて教わった訳ではなかった。もちろん本や新聞、テレビ・ラジオ、インターネットもない。基本的に、知識のある人から直接聞くしかない。

だから、この地区の本山である泉倉寺に、「お大師様をお祀りしたらどうでしょう」と相談したところが、「われわれは天台宗だし、お大師様は真言宗。真言宗のお寺に仁義を切らなくてはまずかろう」ということになったのである。

真言宗のお寺は旧印西町、旧本埜村にはなくて、旧印旛村の師戸に広福寺、平賀に来福寺がある。これらのお寺に快諾を得て、南陽院とこの2つのお寺が印西大師の幹事役(結願寺)となっている。

さて、その南陽院の札所は、本堂の右に置かれている。さすがに創設寺だけあって、大師堂は他の札所より大きいが、それでも中に座ってお勤めするほど大きくはない。さすがに、天台宗でそこまでやったらまずいのかもしれない。

天台宗の最澄と真言宗の空海は、同じ遣唐使で唐に渡って修業したが、最澄は留学僧の筆頭格、空海はその他大勢で末席に連なるだけだった。そのためか、帰国後に最澄が仏典の貸し出しを空海に頼んだところ、「書物は月を指し示す指にすぎない」と断ったことがある。

南陽院から印西大師が始まったことを記念する「新四国霊場勧請記念碑」も、四十四番札所と並んで建てられている。宗旨の違いはあれ、文化文政時代から昭和時代まで、長くこの地域を代表する行事であった。

さて、南陽院の次は、明治ルートでは笠神のいくつかの札所を巡拝するが、昔の名前と現在の名前が違うので順路がよく分からない。笠神青年館、笠神社、表前観音堂、向公民館の前にあるのが番外札所と思われるので、お参りする。

それらのお堂と比べても、七十一番辻の堂は小さい。何しろ、共同墓地の一角で、道路からは木の陰になって見えないのである。四国七十一番は四国の死者が集まる弥谷寺だが、何か共通する要素があると考えられたのだろうか。

そして、辻の堂と南陽院の間に、明治ルートでは原ノ堂という八十二番札所が置かれていた。現在は、遠く白井の長楽寺に遷されているが、その経緯がはっきりしない。

笠神集落に多すぎるので調整したのか、あるいは印西大師が盛んになったから白井町に広げたのか、地元だから南陽院に聞けば分かるだろうけれど。

南陽院は、押付薬師堂向かいの丘の中腹にある。こちらの江戸時代の住職である臨唱法印が印西大師を始めた。

四十四番札所。八十八の半分ということで四十四番にしたという。後ろに見える碑は新四国霊場勧請記念碑。

七十一番辻堂は共同墓地の中、わかりにくい場所にある。旧八十三番原ノ堂も同じような立地だったのだろうか。

辻の堂をお参りしたのは午後3時過ぎ。初日の2時間遅れをカバーすべくがんばって歩いたが、予定に追いつくのは難しいようだ。

翌日は家から歩いて旧印旛村に向かうが、その途中にある3つのお寺を翌日お参りすることにし、旧本埜村役場から家までの間にある福聚院、竜湖寺、滝水寺(りゅうすいじ)と回って、この日は打ち止めとすることにした。

十四番福聚院と通りを隔てた八十五番観音堂は、ともに天台宗福聚院の施設である。ここも普段よく通る場所なのだが、立入禁止みたいな看板が並ぶお寺なので、いままで中に入ったことはなかった。

山門の脇に「防犯カメラ作動中」と書かれているが、中に入らなければお参りできない。監視カメラ云々などと書かれるとここは六十二番かと思うけれども、明治時代以前なのでそういう決め方をした訳ではない。手早くお参りして失礼する。

ここから明治ルートは東漸寺であるが、翌日旧印旛村に向かう途中にお参りすることとし、当初計画ではこの日の朝お参りする予定であった竜湖寺、滝水寺を経由してわが家に戻ることにした。

竜湖寺は物木という集落にあり、小林の住宅地から森を挟んで裏手にある。ここも、普段のお散歩コースである。しゃれた山門がアクセントになっている曹洞宗の禅寺で、江戸時代には縁結びなどで信仰を集めたという。

札所は本堂の左、墓地の前に置かれている。赤く塗ったお堂には2体のお大師様がいらっしゃって、格子はなく直にお顔を拝見できる。ご詠歌の額が2つ掲げられているが、残念ながら墨が薄くなって見えない。

四十七番なので「花を見て歌よむ人は八坂寺…」と書かれていたのだろうか。その歌のとおり、境内には桜が満開であった。

竜湖寺から坂を登って次の集落が滝、ここには六十一番滝水寺(りゅうすいじ)がある。道の一方に本堂と墓地があり、もう一方に薬師堂と鐘楼、いくつかのお堂がある。札所もこちらにある。

南陽院と同じ天台宗のお寺で、集落の菩提寺として古くからあったお寺である。薬師堂はニュータウン開発の際に改築されたがもともと江戸時代からあるもので、仁王門にいらっしゃる仁王様は室町時代のものといわれている。

札所のご詠歌は彫ってあるので読むことができた。四国六十一番は香園寺だが、ご詠歌の下の句が「…止めて止まらぬ白滝の水」なので、滝水寺を読み込んでいる。南陽院は近くなので、きっと「うちは六十一番でどうだろう」と言ったのかもしれない。はるか三百年前のことだけれど、想像するとおもしろい。

札所の大師堂そのものは新しく見えないのだが、土台が石造りの堅牢な造りになっていて、平成になってからの改修らしい。傍らに「小廻り大師」の記念碑も建っている。作られたのは、昭和三十年代と読める。

この日はここで打ち止めとして家に向かう。GPSによる移動距離は27.0km、歩数は45,802歩と、初日に続いてお四国並みのハードスケジュールをこなしたのでした。

この日の経過
自宅7:50 → (3.1km) 8:45 宝泉院地蔵寺 9:05 → (2.9km) 9:40 平岡東大寺 9:50 → (2.3km) 10:25 馬場の堂 10:35 → (1.0km) 10:55 八十一番光明寺 11:00 → (2.1km) 11:20 四十八番西福寺(昼食休憩) 11:40 → (2.0km) 12:15 八十四番密蔵院 12:20 → (6.2km) 14:15 八十三番押付薬師堂 14:20→ (0.7km) 14:25 四十四番南陽院 14:35 →(1.4km) 14:55 七十一番辻の堂 15:00 → (0.7km) 15:10 福聚院 15:15 → (2.3km) 15:50 四十七番竜湖寺 15:55 → (1.4km) 16:15 六十一番滝水寺 16:20 → (1.0km) 16:30 自宅
[GPS測定距離 27.0km]

[Jun 26, 2022]

十四番福聚院と八十五番観音堂は、ともに天台宗福聚院の施設。見えている小堂が十七番。

四十七番竜湖寺。江戸時代から栄えたお寺で、山門が立派。本殿の左手に札所があり、きちんと手入れされている。

六十一番滝水寺(りゅうすいじ)は家から歩いて10分、大きな薬師堂の前に札所がある。2日目はここで打ち止めとする。

参考資料
印西歴史愛好会編「印西大師八十八か所 札所めぐりで郷土の歴史を楽しむ」
北総ふるさと文庫「印西大師八十八か所(印西・白井編)」「同(印旛・本埜編)」
ままちゃり倶楽部印西支部「印西大師」(WEB)
五十嵐行男「印西風土記」
五十嵐行男「印西地方史よもやま話」
本埜村史編纂委員会「本埜の歴史」
白鳥孝治「生きている印旛沼」
水資源開発公団「印旛沼ものがたり」