ギャンブラーにおける道教

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この間ジムワークで着たTシャツはロスで買ったバルガスvsマヨルガ戦のものだった。

時間の経つのは速いもので、カシノや海外旅行に行かなくなってからずいぶん長い時間がたつ。2、3ヶ月おきにマカオに行ったり、突然思いついてロサンゼルスでボクシングを見てラスベガスに転戦した日々をなつかしく思う一方、あれは脳の欲望だったのだろうかといま風の考えが浮かんだりする。

以下の原稿は2006年12月28日に書いた。いま読んでもなるほどと思う。少なくとも、未来の自分を想定読者にしたのは間違っていなかったようだ。
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さて、こうして現在の道教寺院が残ったと考えられるが、この宗教はわれわれギャンブラーにも貴重な教訓を残してくれている。例えば荘子にこういう一節がある。

瓦(が)を以って注する者は巧みに、鉤(こう)を以って注する者は憚(はばか)り、黄金を以って注する者は眩(くら)む。[荘子・達生編五]

意味はなんとなくお分かりいただけると思う。つまらないもの(瓦)を賭けると巧くできるが、ちょっとしたもの(鉤は飾りのついた帯止め金具)を賭けると躊躇する、懼(おそ)れる。そして価値のあるものを賭けると冷静さを失ってしまう、ということである(「眩む」の字は正しくは違うのだが、IMEでは出てこない)。ここから得られる教訓は、「なくなって困るものを賭けると、リスクがあるだけでなく普段の実力を発揮できない」ということであろう。

さらに議論を進めると、「同じテーブルで戦っている限り、金持ちの方が絶対に強い」ということである。それでは零細ギャンブラーには勝ち目がないかというと、そんなことはない。一つの方法は、自分の勝ち負けと他人の勝ち負けを決して比べない、自分の物差しでプレイするということであり、もう一つは、同じ条件でプレイできるゲームを選ぶ、ということである。

前者は、いくら同じテーブルでブラックチップ($100)が乱れ飛んでいても、自分はレッドチップ($5)、グリーンチップ($25)で淡々と打ち、目標額に達したらにっこり笑って席を立つというクールなゲーム運びをしなければいけない、ということだし、後者は、懐に差のある相手と戦うのに最も適しているのは、リバイなしのポーカー・トーナメントということになる。

実はこの一節、この台詞を言ったことになっているのは孔子なのだが、孔子は「荘子」の重要登場人物で、しかも「論語」では決して言わないようなことを言わされている。つまり、荘子の創作なのである。道教はこれまで述べたように儒教の要素をかなり取り入れているのだが、荘子のこうした内容もかなり関係していると思われる。この「達生(たっせい)編」には、相撲の大横綱双葉山で有名な「木鶏」の話も入っている。

そして、老子のあまりにも有名なこの一節も、ギャンブラーにとって含蓄のある言葉である。

道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。[老子・道徳経第一章]

私はこの意味を必勝法などない。勝ち続けることはできないし、永遠に負け続けるということもない、という意味にとらえている。老子も荘子と同様いろいろなところで使われているのだが、最近では「上善は水の若し」が日本酒の名前になっている(若しが如しになっていますが)。

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