カシノやギャンブルに熱中していた頃、運は平等かについて真剣に考えた。誰にでも運は平等なのでいつかは運が向くという考え方がひとつ。もう一つは人生程度のスパンで平等になる訳がないという考え方である。
平安仏教の最澄と徳一の論争にも似て奥深いものがあるが、リスクミニマム、最悪の場合の損失を最小限にとどめるには後者の考え方になるのではないかと思っている。以下は2005年2月、ブログを始めて間もない頃の記事。
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カシノやギャンブルに臨む際、おそらく誰しもが「運」について考える。ギャンブルにおける運とは何かを考察し始めたら1日分のコラムで足りるはずはないが、ある側面についてのみ考えることは可能であろう。そういう訳で今日は、「運は誰のもとにも平等に訪れるのか?」について考えてみたい。
「幸運の女神には後ろ髪はない」ということわざがある。説明するまでもなく、チャンスが訪れたらすばやくこれをつかまなければならない。行ってしまってから後悔しても遅いという教訓を示しているのだが、このことわざは、そもそも幸運の女神は誰でもすれ違っているのだ、ということを前提としている。
だが、カシノでは、「いくらどうやっても泥沼から抜け出せない」場面が必ずある。それは、3時間で抜け出せる場合もあるが、一晩中抜け出せない場合もある。2泊3日の遠征のあいだ中、全く幸運の女神が訪れないということさえある。人生程度のスパンで、全く女神に会わない人がいない訳がないという意見すらある。
話は変わるが、今週号の週刊ポストに、細木数子の対談記事が載っている。その中で「あのね、自分の器を知る必要があるの。例えばマラソンがあるでしょう。マラソンが好きな人は、みんな走っていればオリンピックに出られるわけ?そうじゃないでしょう。自分の器に見合ったことをしなきゃダメなのよ。」(要約しました。このとおりには言ってません)というコメントがあった。
細木女史は、昭和の大儒学者であり易学者でもある安岡正篤(やすおか・まさひろ)氏の薫陶を受けただけのことはあって、時々まともなことを言うのだが、ここでは非常に重要なことを言っている。「人はその機会において平等ではない」ということである。このことは平安時代初めに天台宗の最澄と法相宗の徳一が大論争をやった内容と基本的に同じである。その時は、最澄が勝った。主張したのは「一乗論」、すべての人は仏になれる(=機会の平等)という主張である。以来、わが国では機会の平等が暗黙のうちに前提されてきた。
考えてみれば、人間は平等になど生まれついていないし、機会の平等など絵空事なのだが、それを言ってしまうと教勢の拡大ができないし(お前は仏になる素質がない、などという宗教に大勢は集まらない)、そもそも日本という風土(出る杭は打たれる横並び主義)に合わない。しかし、本当のことをいえば、多分、運は誰の上にも平等に訪れる、なんてことはありえないのである。
だとすれば、どうしても勝ちたい、という考え方も一局だし、初めから勝敗は決まっているのだ、と諦めるのも一局であろうと思う。勝ちたいのはやまやまであるが、みんなが勝てる訳ではない。だとすれば、せめて致命傷を負わないようにするのが、長生きの秘訣である、と言えなくもない。
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